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里見氏研究「第2号」
¥1,100
◼️いわゆる第二次国府台合戦を再検討する はじめに 永禄七年(一五六四)に起こったいわゆる第二次国 府台合戦は、一般に知名度も高いところから、房総戦 (-) 国史や関東戦国史が記されるなかでは必ず触れられる 出来事であるただそれらのほとんどは、基本的に後 述小笠原氏の論考をもとに概説風に述べられているだ けで、合戦そのものに焦点をあてた研究となると、残 された史料の少なさとも相まって、ほとんど存在しな いのが実情である。 (c) 筆者は近時里見義堯の伝記(以下本稿では『義』 とする)をまとめるにあたり、義堯期に起こった多く の出来事についても一つ一つ確認作業をすすめたが、当然この第二次国府台合戦についても改めて検討して みた。その過程で、現在通説化しているいくつかのこ とがらについては再検討の余地が十分にあり、また新 たに付け加えるべき知見や課題があることも確認するに至った。そのようなことについては、なるべく本文 中に生かすように努めたが、当該書が一般書である以 上、考証過程の詳細や新たな知見のすべてを述べるこ とはできなかった。したがってここでは、まずこの合 戦に関する研究史を確認したうえで、詳述できなかっ た部分を開示し、従来説の問題点や未解明の部分、さ らには課題を浮き彫りにしつつ、改めてその実像に少しでも迫ってみようとするものである。 滝川恒昭
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里見氏研究「創刊号」
¥1,100
SOLD OUT
⬛︎創刊にあたって 里見氏研究会は、二〇一九年四月発足した。これまで大野太平川名登・さらには稲村城跡の保存運動に 関わったさまざまな人たちが築いてきた研究を継承しながら、戦国大名里見氏(房総以外の里見氏を含む) を中心軸に里見氏と深く関わった正木氏武田氏千葉氏関東足利氏などについても、最新の成果や研究 に基づいて新たな課題を確認し、さらなる研究の進展をはかることを目的としたものである。 以後、年一回の総会と、隔月(偶数月)の研究例会(研究発表、古文書・史跡見学会など)の実施を中心 に活動してきたが、二〇二〇年二月以降、思いもかけず新型コロナウイルスの世界的感染拡大 パンデミッ ク)という荒波に遭遇し、研究例会も延期や開催中止のやむなきに至ったこともたびたびである。 それでもなんとかこれまで研究会活動を続けることができたのは、一重に研究成果の一端を例会で発表い ただいた方々、感染対策等に協力いただきながら各方面から会に集う方々、またさまざまなかたちで会活動 をサポートしていただいた方々のお蔭である。 しかも二〇二一年四月の総会では、会のさらなる発展を期すために、研究会としての組織の体裁を整える とともに、会員相互の交流をはかり、なにより研究の進展と会活動の実績を具体的に世に問うために、研究 機関誌(刊)を刊行することを決した。本誌はそのような経緯と目的をもって生まれたものである。 本誌が、里見氏を通じてその時代を考えようとする人にとって学問的成果を問う場となるとともに、里見氏のことを身近に感じ親しんでいただける冊子となり、研究や会活動がさらに進展することを願うものであ る。多くの方々のご支援とご協力を賜ることができれば幸いである。 二〇二二年二月 里見氏研究会代表 滝川 昭
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91 金山城
¥400
◼️ 金山城のご説明 千葉県鴨川市 金山城は鴨川から久留里、 君津、 大多喜、 木更津の各方面に抜ける街道 筋の丘陵に築かれました。 標高約140mの城山を取り巻くように金山川が蛇 行して流れており、 水上交通と陸上交通の要衝地にあたります。 現在、 城山 の北から東南にかけては金山ダムがあり、後世の大規模改変を受けています。 南麓には 「宿」の地名が残り、周辺に根古屋集落が形成されていたとも 考えられています。 金山城の築城等の詳細は不明ですが、 長狭地方と上総国中央部を結ぶ街道を押さえる役目を担っていたと考えられます。 城内には堀や土塁が残り、 石積みを伴う桝形虎口が確認できます。 金山城は戦国時代末期には、正木憲時と里見義頼の抗争の舞台となりま した。 小田喜城 (大多喜町) 城主だった正木憲時は、 里見義堯、 義弘の 同盟者として小田原北条氏と懸命に戦いました。 義弘の死後、遺領の相続 をめぐり義弘の嫡男梅王丸と義頼の間で抗争が勃発。 機先を制した義頼に よって梅王丸とそれを支持する勢力は制圧されました。 その際、義頼に対し て正木憲時が反旗を翻したのが、 天正8年(1580年)に起きた「正木憲時の乱」 と呼ばれる争乱です。 義頼は先制攻撃に出て、瞬く間に数城を攻め落とし、 太平洋岸の地域を 制圧しました。 憲時は小田喜城と興津城 (勝浦市) を拠点に、 義頼方となっ た吉尾城 (勝浦市) を攻撃するなど抵抗しました。 しかし、憲時は徐々に 追いこまれ、天正9年9月、 小田喜城でその生涯を終えました。この争乱 の際に、金山城は憲時方の城だったことが 『椙山文書』 にて確認されています。 ◼️御城印デザインのご説明 金山城は詳細不明ですが、 平安鎌倉時代には長狭地方を領していた長狭 氏の城とも、地頭 東条氏の城とも、 里見義実の安房統一の締めくくりの城 とも伝わっています。 里見義実の攻撃によって、東条氏の郎党が身を投げた 「長九郎滝」 (ダム工事で消失) が伝わるなど、落城伝説も残っ ています。それらの真偽は不明ながら、 地元に残る伝承か らかつて近くに存在した 「長九郎滝」 と伝わる滝をイメージ しました。 あわせて、史実である正木憲時と里見義頼の抗争の舞台 となったことから正木氏の家紋「三つ引き両」と、里見氏の 家紋「二つ引き両」 を配置しました。
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90 大友城
¥400
◼️ 大友城のご説明 千葉県香取郡東庄町 大友城は椿の海の最北端に位置する半島状に突き出た標高約 50mの舌状台地に 築かれました。 城域は東西約100m、南北約300mに及ぶとされ、「政所台」「遠所台」 という字名が残っています。 政所台は二の丸、 遠所台は主郭にあたるとされていて、 地 形を活かした連郭式の構造になっています。 大友城は、古くは長元元年(1028年)に朝廷に対する反乱 (平忠常の乱) を起こした平忠常の館跡とも伝わっていますが、今に残る遺構は戦国時代のものと思われます。 このように築城についての詳細は不明ですが、立地的に考えると、東氏や海上氏など千葉一族に関連する城館だと推察されます。 城域の大部分は畑になっているものの、わずかながらも土塁、 空堀、 腰曲輪などが 残っています。 字名として「鍛冶屋敷」 「旗口」 「兵岬」 など、 城と関連が想像される地名 も残っています。 ◼️ 御城印デザインのご説明 『香取郡誌』によると、 大友城は平良文の居城と伝わっています。平良文は桓武平 氏良文流の祖とされ、 千葉一族、 三浦一族など坂東を代表する氏族を輩出しました。 また、『今昔物語集』 には平忠常の乱の平定のため、 源頼信が忠常の居館に向か う際の記述があります。それによると、頼信が鹿島神宮から南下して利根川の北岸に 至ったところで、 「忠常の居館は内海に入った場所にある」と記されています。 この記 述により、 平忠常の居館は大友城と考えられています。 大友城が平忠常の居館という伝承に基づき、 大友城の御城印には平家の家紋を入れました。あわせて、忠常の乱を平定した源頼信に因み、 源氏の家紋をデザインしました。 そして、江戸時代に描かれた平忠常の乱を題材にした 「源頼信 平忠常 大椎城水 攻之図 (歌川貞秀)」をモチーフにしました。 忠常の生きた平安時代とは、時代の合 わない天守閣などが描かれているものの、城の周りは海になっています。 椿の海に面 して築かれ、 水上交通の押さえの役目を担っていたと推察される大友城の特性を描い ていて、大変貴重な絵だと思われます。 なお、絵の表題は「大椎城」になっていますが、 近年では平忠常の本拠は大友城の可能性が高くなっているため、この絵をモチーフに しました。 あわせて、大友城は戦国時代には千葉一族に関する城として使 われていたと考えられることから、 千葉一族の家紋「月星」 と 「九曜」 を配置しました。 なお、東庄町のすべての御城印は、日本のみならず海外でご活 躍の英国王立美術協会の名誉会員でもある岩井颯雪様にご揮毫 いただきました。
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89 峰上城
¥400
◼️ 峰上城のご説明 千葉県富津市 峰上城は湊川の河口から5kmほど上流、支流である志駒川と合流する地 点の標高約130mの丘陵に築かれました。 長狭方面や小糸方面 また湊川を 通じて東京湾に出ることができる立地からも、水陸両方の交通の要衝地で あったことが分かります。 秋元 (小糸) 城、 久留里城を通じて真里谷武田氏の 本城である真里谷城と連携していたと考えられます。 峰上城は遺構が広範囲にわたって良好に残っています。 また、 『上総国天 羽郡峯上古城之図』 (国学院大学図書館所蔵)には、「大橋」「大門」 「中城」 「本丸」「尾崎曲輪」 などの記載があり、 当時の大手道など、 城の様子が推察 できます。 峰上城の築城等の詳細は不明ですが、 古河公方足利成氏の家臣真里谷 武田氏が上総南西部の支配拠点として築いたと考えられていて、 真里谷武田 信興による築城とも伝わっています。 城内の環神社に奉納された天文2年 (1533年) の紀年銘を持つ鰐口に「峰上之城」 と刻まれていることから、少な くともこのときまでには築城されていたことが明らかとなっています。 峰上城は真里谷武田氏の重要拠点として機能していたと考えられますが、 『鳥海文書』には、尾崎曲輪に駐屯していた吉原玄蕃助が二十二人衆を率い て小田原北条方として戦ったと記されていて、16世紀中頃には小田原北条方 の城となっていた可能性も指摘されています。 詳細は不明ながら、戦国期の 諸勢力が入り乱れて争った状況を知ることができる貴重な城といえます。 ◼️御城印デザインのご説明 戦国時代の遺構を良好に残し、広大な城域を誇る峰上城の御城印には、 『上総国天羽郡峯上古城之図』 (国学院大学図書館所蔵) をモチーフにしま した。 この絵図には、 峰上城の代名詞ともいえる全国にも類を見ない特徴的 な七連続堀切がしっかりと描かれています。 峰上城に関する遺物として、前述の天文2年の紀年銘を持つ鰐口や、同じ <天文年間の紀年銘で真里谷全芳奉納の鰐口が伝わっています。 御城印 には、鰐口をデザインしました。 また、伝吉原玄蕃助着用といわれる、 房総の戦国時代を代表する甲冑としても有名な仏胴胸取五枚胴具足 (館山市 博物館所蔵) もデザインしました。 いずれも、峰上城を物語 る上でとても貴重な伝承品といえます。 あわせて、真里谷武田氏の家紋「四ツ菱」をデザインしました。
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88 堀川館
¥400
⬛︎ 堀川館のご説明 千葉県匝瑳市 堀川館は標高5mほどの砂州上の徽高地を利用して築かれた居館です。 堀川 集落に残る館跡のため、「堀川館」とよばれていて、現在は星宮神社が鎮座して います。 以前は、 星宮神社の境内を囲むように堀と土塁が巡らされていたといい ます。 近年の道路工事でほとんどの遺構が消滅しましたが、現地に残るわずかな 土塁と堀の痕跡からかつての方形区画の館跡を想像することができます。 築城等に関する詳細は不明ですが、 千葉一族の庶流である堀川氏の居館と 伝わっています。 堀川氏についての詳細も不明ですが、 「神代本千葉系図」には、 椎名胤光の子に胤次、清胤の名前が載っており、それぞれ堀河四郎、 同又四郎 と脇書されています。このことから、 堀川氏は千葉一族椎名氏の分家であること が推察されていて、鎌倉時代に堀川の地頭職を得て、 代々この地を治めていたと されています。 戦国時代には、 野手周辺を領していた同じく千葉一族椎名氏の庶流である野 手氏によって堀川館は攻められ、 堀川氏は家臣ともども討ち死にしたと地元に伝 わっています。 また、 「天正十八年千葉家落城両総城々」には、天正18年(1590年) に椎名山 城守が堀川館の城主だったと記されています。 発掘調査では、奈良時代から江戸時代にかけての遺物が出土していることから継続的にこの地に地域の中心的な施設があったと考えられます。 また、明治初年には堀川館の跡地に三河西端藩の陣屋が設けられました。 ⬛︎御城印デザインのご説明 千葉一族堀川氏の居館と伝わる堀川館の御城印には、 千葉一族の家紋 「九 曜」をデザインしました。 現在鎮座する星宮神社の旧号は「妙見大菩薩」だった といい、妙見信仰を重んじていた千葉一族との繋がりが推察できます。 この神 社は堀川氏が勧請したとも、堀川氏の後に入った野手氏が勧請したとも伝わっ ています。 堀川館の発掘調査では、台と歯を一木から作る鎌倉時代の連番下駄が出土し ています。 実際は下駄の台のみの出土ですが、 御城印にはイメージとして下駄完 品の絵を描きました。 他にも堀川館からは15世紀以降の土鍋、内耳土鍋、 多数のかわらけ、17世紀 以降の陶磁器など生活用品が発掘調査から見つかっています。 さらに調査では、フイゴの羽口や鉄滓が見つかっていて、 周辺には鍛冶屋という字名も残ることから、この地域で、中世 から近世にかけて鍛冶が行われていたことが推察されます。 御城印には、これらのうち、代表的な遺物である、 かわらけを 描くとともに、堀川館が微高地を巧みに利用して築かれた居館 であることから、地形がわかる地図も配置しました。
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87 天羽城
¥400
⬛︎ 天羽(あもう) 城のご説明 千葉県富津市 天羽城は標高約120mの丘陵に築かれた山城です。 北側には湊川、 西側には相川が流れていることから、水上交通の発達した地域であった ことが分かります。さらには、城下西方の相川に並行するように鎌倉み ちと伝わる街道が通っており、 水上交通のみならず、 陸上交通の要衝 地でもあったことが推察できます。 天羽城の築城等の詳細は一切不明ですが、 「天羽城 (あもじろ)」 と いう字名も残ることから、地元では古くからこの山が天羽城であると伝 えられてきました。 天羽城は井戸、 土橋、 堀切、 石積み遺構等が残り、さらに山頂部 は綺麗に削平されており、周辺を見渡せる視界良好の主郭となっていま す。北西には湊川越しに東京湾、東には峰上城を臨むことができます。 「天羽」 は、その地名から上総氏の庶流である天羽氏が平安時代末 期から鎌倉時代に天羽の地を領し、苗字の地としたと考えられています。 今に残る天羽城は室町期以降に築かれた山城だと推察され、 真里谷武 田氏の峰上城と連携して機能していたと考えられています。 また、天羽 城周辺には里見義実が創建し、正木時治が再興したとの伝承をもつ見 性寺があることから、 天羽城と正木氏の関連も指摘されています。 ⬛︎御城印デザインのご説明 平安時代から鎌倉時代にかけては上総平氏である天羽氏、 室町期か ら戦国期には真里谷武田氏の峰上城との連携、さらに正木氏の伝承が 残る天羽城の御城印には上総氏の家紋 「九曜」、 真里谷武田氏の家紋 「四つ菱」、 正木氏の家紋 「三つ引両」をデザインしました。 天羽城の麓を通る鎌倉みち沿いには集落が形成されていて、 見性寺、 薬師堂、 観音堂などが残り、 中世の天羽の様子を彷彿とさせてくれます。 また、相川と湊川の合流地点は、 中世期からの船着き 場があったと思われ、 陸路と水路の結節点であるこの地 域の重要性が浮かび上がります。 御城印にはそれらの街道や集落、さらに河川が描かれ た地図をモチーフとするとともに、 天羽の谷や山の景色 をイメージしました。
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86 田間城
¥400
⬛︎ 田間城のご説明 千葉県東金市 田間城は九十九里平野に向かって伸びる標高約 50mの丘陵に築かれまし た。 現在、 城山の南東麓には田間神社が鎮座しています。 城山は急崖に囲まれ た天然の要害となっていて、 城下には街道が通り、交通の要衝地にあたります。 田間城は東金酒井氏の支城と考えられています。 東金酒井氏の本城東金 城が南西約2kmに位置し、 東金城と田間城が密接に連携しながら機能して いたことが分かります。 東金酒井氏は「鎌倉大草紙』によると、 享徳の乱によって起きた千葉氏の内 粉をうけて、 美濃から下向した東常緑(とうつねより)が部下の浜春利を東金城 に入れたことにはじまるとされますが、 東金城の築城年代など詳細は不明です。 その後、 東金城の支城として築かれた田間城も築城等の詳細は不明です。 伝承では、永正6年(1509年) に酒井定隆が築城したともされますが、 史料で は確認できません。 いずれにしろ、 東金酒井氏の支城かつ東金城の北方の防衛施設として、田間城は築かれたと考えられます。 東金酒井氏は、里見氏と北条氏の争いが激化すると、 両勢力に挟まれ政治 的な判断を迫られました。 そして、最終的には北条氏に属し、 天正18年 (1590年) の小田原の役を迎えました。 東金城は、小田原の役まで東金酒井 氏の本城として機能していたとわかっていることから、 田間城も東金城の支城 としてその頃まで機能していた可能性が高いと思われます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 田間城は東西約 500m、南北約240mが城域と考えられ、主郭の他、 複数の 曲輪が形成されています。 堀や土塁などが良好に残る田間城の御城印には縄 張図をデザインしました。 合わせて、 東金酒井氏の家紋 「右巴 (右巻の巴)」 をデザインしました。 さら に、城下を通る街道や宿、 そして本城東金城との位置関係が分かる地図をモ チーフにしました。 現地から街道を見下ろすと、いかに田間城 が街道筋に対し意識的に築かれていたかを感じることができ ることから、御城印には街道を見張る城のイメージで門を描きました。 街道がよく見え、 東金城に向かう街道を押さえる役目が あったことが推察できます。
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85 勝山城
¥400
⬛︎ 勝山城のご説明 千葉県安房郡鋸南町にある勝山城は対北条氏のために築かれ た里見水軍の基地です。 標高80mの八幡山に築かれ、眼下に 勝山湊を臨むことができます。険しい独立丘陵を利用し、 岩盤を削 り残して土塁や石塁を設け、 尾根上に堀切を入れ、城塞化してい ます。 南西山麓の「水浦」には船溜まりがあったと思われており、そ の水浦に向かって削平した曲輪がいくつか見られることからも、船着 き場や、そこにいた水夫の存在を想像することができます。 勝山城は戦国期の典型的な海城で、 内房を支配していた内房 正木氏の城でした。 勝山城を 「新地」とする書状も残っていること から、 三浦半島に幡踞する北条水軍との戦いの拠点として新たに 取り立てられたことが推測でき、 同じく里見氏の金谷城と岡本城と 連携するため、その2つの城の間に位置する勝山に勝山城が築か れたと考えられます。 江戸時代に入り、 里見氏が改易になると、 内 藤氏が入府。 北麓に陣屋が築かれ、町は発展していきました。 ⬛︎御城印デザインのご説明 勝山城は岡本城と金谷城との連携を考えた上での好立地に加 え、湊の前面に防波堤にも目隠しにもなる浮島をもつ理想的な水軍 基地です。 この勝山湊こそが勝山城の存在意義と考えられるため、 御城印デザインは勝山湊の遠景をモチーフにしまし た。 勝山城城山の山容と勝山湊 そして小舟を描き、 さらに里見氏の家紋 「二つ引両」 と天正期に城主 だった正木氏の家紋「三つ引両」をそれぞれ配置しました。
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84 妙本寺砦
¥400
⬛︎ 妙本寺砦のご説明 千葉県安房郡鋸南町にある中谷山妙本寺は、 房総半島の中でも屈指の日蓮宗の古刹です。 14世 紀前半に創建され、 その後、永正11年(1514) に里見義通がここを陣所として以来、有事の際に は里見氏の要害として使われたため、 「妙本寺要害」 「妙本寺砦」 などと呼ばれています。 対北 条氏のための里見水軍の拠点として新たに勝山城が築かれるまでは、岡本城と金谷城の間にあ る妙本寺が、この二つの城の連携を担っていたと考えられます。 実際、 東京湾を挟んで三浦半 島と対峙するこの寺は、戦国期には何度も戦火にさらされました。 また、 里見義堯と日我上人は、 お互いの学徳の高さに感銘し、厚い親交を重ねました。 そして妙本寺は里見氏の庇護を受けることになります。 海に面した丘陵地に位置し、 本堂を囲むようにぐるりと尾根がめぐっており、 自然地形を使っ て要害化した痕跡が見られます。 太鼓打場と呼ばれる平場や堀切などが残り、戦国期の名残り をとどめています。 妙本寺には禁制などのたくさんの文書が残り、現地に残る痕跡や地形、立地以外にも、それらの記録が当時の歴史を今に伝えてくれます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 海岸方面から妙本寺に向かうと、徐々に坂道になります。 坂道を上り山門の前に立つと、妙 本寺を取り囲む尾根と、 本堂の建つ高台がまるで砦のように目の前にそびえ立ちます。 妙本 寺砦の御城印はそのようなイメージで、 現在の妙本寺山門に柵を描き、デザインしました。 臨時の要害にも使われた里見氏ゆかりの寺なので、里見氏の家紋 「二つ引両」 を配置しました。 さらに、妙本寺境内にある里見氏の家紋と波をあしらったモチーフを使わせていただきまし た。ぜひ、現地で探してお楽しみください。
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83 次浦八郎常盛館
¥400
⬛︎ 次浦八郎常盛館のご説明 千葉県香取郡多古町 次浦八郎常盛館と呼ばれる城館は、次浦集落から西に外れた次浦字大 峰の杉林の中にあったとされます。 周囲の地形を削り出して館を造営したと 思われ、現地には雛壇状の平場が残っています。 『神代本千葉系図』によると、次浦八郎常盛は千葉常兼の弟粟飯原五 郎家常の四男とされますが生没年等の詳細は不明です。 常盛は源義家に 従い、後三年の役に出陣し武功を挙げたといいます。 次浦集落の北側には次浦城とよばれる土塁と空堀に囲まれた方形の城館 があり、現地に遺る形態から戦国時代の城館と推察されています。そのた め、次浦氏の早い段階の居館がここ次浦八郎常盛館で、その後、いずれ かの時期に次浦城を築いて居館を移したとも推測されています。 ⬛︎ 御城印デザインのご説明 次浦城は千葉一族次浦氏の居館とされていますが、それ以前は藤原親政 の館があったとも伝わっています。 藤原親政は 「千田親政」とも称され、 千田庄領家として下総国に下向していました。 親政の居館は内山 (匝瑳市) と次浦にあったと伝わっていることから、 千葉一族次浦氏が次浦に入り居 館を築く以前は親政の館が次浦にあったと考えられています。 その親政の 居館が次浦八郎常盛館の前身とも指摘されています。 親政は平清盛の妹を妻としていることからも、平家政権の中枢を担う人 物だったと考えられます。そのことから、多古町を中心として広がる千田庄 が古くから、下総国統治のために重要な地であったことがうかがえます。 治承4年(1180年)、 親政は石橋山合戦の敗戦後に房総半島に逃げ てきた源頼朝や頼朝を支持する千葉氏を討伐するため、平家方として内山 から出陣しました。 そして、 結城浜 (千葉市) 千葉成胤率いる千葉氏の 軍勢に敗れ、次浦の館に逃げ帰ったと伝わります。 その後、親政は源氏方 に捕えられ、処刑されたとも伝わります。親政なきあとの千田庄は千葉氏 の所領となり、 千葉一族棟梁の常胤により、弟の胤幹、 胤幹の子胤氏の 領地となりました。 このように、次浦八郎常盛館が平家政権ゆかりの城館 であることから、御城印には平家の家紋を入れました。 そ して、その後の領主である千葉一族の家紋 「月星」「九曜」 を配置しました。さらに平清盛と千葉常胤という次浦にゆ かりのある平家、 千葉一族の二家を象徴する2人をモチー フにしました。
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82 下小川城
¥400
⬛︎ 下小川(しもおがわ) 城のご説明 千葉県香取市 下小川城の詳細は不明ですが、小見川城主粟飯原氏の重臣成毛宗親 の城と伝わります。 現在、東光院血当寺が建っている場所が下小川城とされ、 周辺には 「堀之内」、 「蔵屋敷」などの地名が残っており、 周りを水田に囲 まれた微高地となっています。 下小川城の北方約 3kmには千葉一族粟飯原氏の小見川城があり、 里 見氏の侵攻を防ぐために、急遽、 従前の寺院を改修して小見川城を守るた めに城郭として整えたと考えられています。 永禄3年(1560年) の上杉謙信(長尾景虎)の関東出陣に呼応し、里 見軍の将である正木時忠が下総国に侵攻しました。 正木氏は「橋向城」と 呼ばれる陣城を現在の小見川中央小学校の場所に築き、小見川城を攻撃 し、永禄9年(1566年) まで在城したと伝わります。 その際に小見川城を 守るため、 里見軍の橋向城に対峙するように築かれたのが別名「川向城」 と呼ばれる下小川城と考えられています。 血当寺は里見軍撤退後の永禄10年(1567年) に 城としての役目を終 えた下小川城の跡地に成毛宗正が父宗親のために創建したと伝わります。 ⬛︎御城印デザインのご説明 下小川城の御城印には小見川城と里見軍正木氏の陣城 「橋向城」、 そ して下小川城の位置関係がわかる地図をデザインしました。 あわせて、 血当寺に残る 「明応4年」 (1495年) と読み取れる文字が記 された貴重な頭部山形双塔板碑をモチーフにしました。 頭部山形双頭板 碑は下総地方特有のものといわれる大変貴重な板碑です。しかしながら、 現 地に残る板碑は摩耗が激しいため、 御城印には復元イメー ジした板碑を描きました。 そして、千葉宗家の家紋 「月星」、千葉一族の家紋 「九曜 」 、 小見川城主粟飯原氏の家紋 「三本竹」 を配置しました。
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81 大島砦
¥400
⬛︎ 大島砦のご説明 千葉県香取郡多古町 大島砦は標高32mの丸山及びそこに繋がる北西側台地の基部に築かれました。 現在、 丸山の山頂には熊野神社が鎮座しています。 城郭遺構は確認できないものの、 東側先 端には人工的な平場があり、 栗山川を見下ろす位置に当たることから、 櫓台の可能性も 考えられます。 大島砦の詳細は不明ですが、 千葉胤貞による築城とも伝わっています。 平安末期から、 多古は 「千田荘」 という荘園の中心地で平家一門の藤原親政(ふじわらのちかまさ) の領地を経て千葉氏の領地となります。 千葉氏は源頼朝に助力し、鎌倉幕府の成立に 大きく貢献、そして勢力を拡大していきました。 しかし、鎌倉幕府が滅亡すると、 千葉一族も足利尊氏派 (北朝) と後醍醐天皇派 (南 朝) に別れて戦いました。 「千田殿」 と呼ばれ、 千田荘を本拠とした千葉胤貞は尊氏派に、 胤貞の従兄弟の貞胤は後醍醐天皇派につき、一族は対立して戦うことになったのです。 多古は争乱の舞台となり、鎌倉時代から南北朝時代にかけて多くの城が築かれました。 そのような状況の中で、 大島砦も築かれたと考えられます。 大島砦の北方わずか1.5kmには、 志摩城が築かれた「島」 があります。島は中世 期割符 (さいふ) 取引 (為替取引) が当時の金沢称名寺領であった茨城県久慈との間 で行われていたことが、文献上も明らかとなっている全国的にも珍しい場所であり、中世期 の商業的繁栄が推測される場所です。 享徳の乱に端を発した千葉一族のお家騒動の 際は、このように重要であった志摩城に千葉宗家当主胤直が籠城しました。そしてその後、 志摩城城内にあったと思われる妙光寺 (現正覚寺) にて自刃したとされています。 千葉氏にとって志摩城は重要な城であり、 その志摩城の前面の防衛の役目を担って いたのが大島砦であるとともに、 栗山川を中心とする水運の監視所として、重要視された ことが推察できます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 大島砦の東側を流れる古代からの水運の大動脈である栗山川は、 大島砦付近で多 古橋川に分岐、さらに志摩城付近で借当川に分岐します。 まさに、 大島砦と志摩城は3 本の河川を掌握する場所に位置しており、古代からこの地域の水上交通の要衝地であっ たと思われます。 大島砦の御城印は、 大島砦、 志摩城の位置や、 多古橋川、 借当川、 栗山川および明治時代においても残っていた湖沼 (現在の多古光 湿原) がわかる地形図をモチーフにしました。 栗山川流域は古くから水上交通が発達していたため、たくさんの 丸木舟が出土しています。 そのため、 御城印には丸木舟をデザインし ました。 栗山川、 借当川流域における縄文時代の丸木舟の出土数 は全国の5割を占めているといいます。 あわせて、 千葉一族の家紋 「九曜」 「月星」 をデザインしました。
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80 石浜城
¥400
⬛︎ 石浜城のご説明 東京都荒川区 石浜城は隅田川 (古利根川) 沿いの水上交通の発達した地域に築かれました。 かつては、橋場 (荒 川区・台東区)、 今戸、 待乳山 (台東区) 周辺一帯が広く 「石浜」と呼ばれていたといいます。 石浜城の比定地については諸説ありますが、現在の石濱神社 (荒川区南千住三丁目) が石浜城の 有力候補地とされています。 石浜周辺は武蔵国と下総国の境に当たり、 古代東海道上に位置し、 川を渡る 「渡し」 があり、水陸 交通の要衝で都市的な場として発展しました。 鎌倉時代には江戸氏の拠点であり、室町時代には江戸庶家である石浜氏の本拠地だったと考えられます。 石浜城の築城年代や築城主などは不明ですが、交通の要衝の地に築かれたと推察されます。 南北朝時代文和元年1352年は足利尊氏と新田義貞の遺児である南朝方の新田義興との武蔵 野合戦で、 石浜に逃れた尊氏がここで立て直しをはかり、南朝方の新田軍を破りました。 享徳の乱(1454年)に端を発した千葉一族の内紛が起きると、 当主千葉胤直ら千葉宗家が傍流である 馬加康胤らに襲われ、 多古 (千葉県香取郡多古町) に逃げ込む事態となりました。 馬加胤らはさらに 多古を攻め、直と子の宣胤は自刃直の弟胤賢も自刃しました。このとき、胤賢の子である実胤、 自胤(これたね(※1))は市河城に脱出しましたが、 市河城も落とされ、武蔵国に逃れました。扇谷上杉氏の家宰太田道灌の支援を受け、 実胤が赤塚城に自胤が石浜城に入り、 武蔵千葉氏となりました。 (※2) しかし、勢力をそがれた武蔵千葉氏の石浜の維持は困難であったと思われます。 そのため、 扇谷上杉氏の庇護のもと、千葉宗家奪還を目指し本佐倉城を拠点とした下総千葉氏と戦いましたが下総への復帰は叶いませんでした。 その後、 武蔵千葉氏は小田原北条氏に属し、北条氏から養子を迎えています。 天正18年(1590年) に北条氏が豊臣秀吉に攻められて滅亡すると同時に武蔵千葉氏も没落し石浜城も廃城となったと思われます。 ※1 自胤の読みに関しては、「千学集抜粋」 に読みが書かれており、それによって「これたね」と読むことが定説となっています。 ※2:「鎌倉大草子」 などの書物では、実胤が石浜城に、 自胤が赤塚城に入城したとされますが、研究の結果、この内容は否定されています。 ⬛︎ 御城印デザインのご説明 石濱神社は神亀元年(724年) に聖武天皇の勅願で創建され、鎌倉時代以降は武家から篤い信仰を受け、江戸時代は東都の名所として知られました。 「神明さん」 と親しまれ、 ご祭神は伊勢神宮と同じ 天照大御神 豊受大御神です。 「江戸名所図会」に描かれた境内の俯瞰図をデザインしました。 石浜城付近にあった渡しは、「隅田の渡し」 橋場の渡し」 と呼ばれていました。 治承4年(1180年)、 石橋山の戦いで平家軍に敗れた源頼朝は、安房国上陸後に鎌倉を目指して進軍しますが、その際にこ この付近に浮橋を架けて渡ったとされ、これが 「橋場」の地名伝承となっています。そのことから御城印は、隅田川を渡る頼朝の錦絵 「江戸名所古跡伝」モチーフにしました。 千葉氏伝来の宝珠を祀った石濱神社内の真崎稲荷に関する故事、武運守護を宝珠に祈願する千葉胤直の姿を描いた「東京開化名勝之内 千葉介胤直石浜神明之古筆』 をモチー フにしました。胤直は傍流の馬加康に攻められ戦死しましたが、 甥の自胤、実胤が武蔵国に逃げ、 自胤が石浜城に入ったことから、無念の死を遂げた胤直が一族の存続と繁栄を真崎稲荷の祭神に祈るという場面が錦絵に描かれたのかもし れません。あわせて千葉宗家及び、 武蔵千葉氏の家紋を配置しました。 なお石浜城の御城印は、石神社職員の書家鈴木明空 (めいくう) 様にご揮毫いただきました。
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79 中峠城
¥400
⬛︎ 中峠(なかびょう) 城のご説明 千葉県我孫子市 中峠城は利根川と手賀沼に挟まれた標高20mほどの湖北台地に築かれ ました。南北西の3方向は急崖となっていて、 東側のみが台地続きとなっ ています。 別名「芝原城」ともいい、かつてこの地が芝原村という村だっ たことに因みます。 周辺は開発によって崩されてしまったものの、 現在は 「古利根公園 自 然観察の森」 として一部が保存整備された公園になっていて、堀や土塁 の痕跡が確認できます。 東側の台地上に 「下根古屋」、西側の台地の下から法岩院にかけて 「上根古屋」 という地名が残っています。 この 「根古屋」 という地名が残る ことから、 中峠城が戦国期に使用されていたことが推察されています。 『湖北村誌』によると、中峠城は千葉一族である河村氏の居城で、天 文10年(1540年) に河村出羽守が古城を改修整備して 「中峠城」と命名し たとされています。 詳細は不明ながらも河村氏は主家の千葉氏を通し て北条氏に属したと考えられ、同じく北条氏に属していた小金城 (松戸 市)の高城氏の支配下にあったとされています。 天正19年 (1590年) の 小田原合戦で河村氏は小田原城に詰め、その留守中に中峠城が落ちたと 伝わっています。 上根古屋地区にある法岩院は河村氏の菩提寺とされ、江戸時代に造立された河村一族の墓がいまもなお残っています。 ⬛︎御城印デザインのご説明 中峠城の御城印には、城下を通る街道や地形が分かる地図をデザイン しました。 中峠城の北側直下は、旧利根川の名残りである古利根沼となっ ていて、この地が水運の要衝だったことがわかります。 中峠城の東側に 「海老宿」 という宿地名があることから、城下に宿が形成されていたと 思われ、まさにこの地は水陸交通の結節点にあたると推察されます。 中峠城からは、かわらけが10点出土しています。 そのうち7点は、堀 底に一群にかたまった状態で見つかっていて、残り3点は黒いシミが付 いていたことから灯明皿として使用されていたと考えら れています。 中峠城では柱穴は見つかっておらず、 居住 性は認められませんでしたが、 堀や土塁が現地で確認で きることや、かわらけなどの遺物が出土していることか ら当時を偲ぶことができます。 さらに、河村氏の出自とされる千葉一族の家紋 「九曜」 と 小田原北条氏の家紋「三つ鱗」をモチーフにしました。
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78 川原井里見城
¥400
⬛︎ 川原井 (かわはらい) 里見城のご説明 千葉県袖ケ浦市 川原井里見城は小櫃川の支流松川によって形成された谷津に面した 標高 80mの丘陵に築かれました。 里見亦四郎の居城という伝承を持ち、 「ジョウヤマ (城山)」の字名が残っています。 現在、 「ジョウヤマ」 と呼ば れる最高地点はゴルフ場となっていますが、かつては80m×50mの区画と、 西側に堀が存在したとされています。さらに周辺には「軍坪 (いくさつぼ)」 「番所」「番所谷」 「番所前」 「長堀」 などの地名が残っています。 また、番所谷北側の高台には土塁に囲まれた空間があったことが見て 取れ、最高所の 「ジョウヤマ」 とその下に位置する区画とが一体になり機 能していた可能性が考えられます。 川原井里見城の詳細は不明ですが、 松川とそれに沿うように通る街道 を押さえる役目を担っていたと考えられます。 この地域は近くに鎌倉街道も 走り、また松川は川原井付近の最上流部から丘越えをすれば、養老川 水系に繋がり、交通の要衝です。 城山麓の北西を流れる大月川の対岸 の真光寺の台地からは平安時代を中心とした遺跡が存在することからも、 この地域は古くから往来があり、開けた大事な場所だったことが推察されます。 山を越えた西方に真里谷武田氏、 里見氏、 小田原北条氏いずれかの築城と考えられている川原井城があることからも、この付近が諸勢力の入り交じる重要な場所であったことが分かります。 ⬛︎御城印デザインのご説明 川原井里見城の城下には美しい谷津の風景が残っています。 また、谷 を見下ろすように築かれた物見台跡と思われる平坦面が残るなど、当時の 面影を感じることができます。それらの谷津や大月川の対岸にある真光寺、 そして松川や街道などがわかる地図をモチーフにしました。 大月川に面した丘陵部には礫石つぶていし)が集積さ れていたと伝わることから礫石をデザインし、物見台から周 囲を見張る兵士をイメージしました。あわせて、里見氏の家紋を配置しました。
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77 小坪館
¥400
⬛︎ 小坪(おつぼ)館のご説明 千葉県袖ケ浦市 小坪館は南に小櫃川、 北に松川が流れる標高約 1.5メートルから2mの自然堤防上に 築かれました。 現在の中川小学校付近が小坪館の推定地とされています。周辺には小 坪館との関係も考えられる「榎戸」という小字名、 「中溝」という伝承地名も残っています。 小坪館の詳細は不明ですが、鎌倉時代前期には、 横田郷の在地領主と考えられる「横 田悪四郎入道」なる人物が上総国御家人として記録されています。 戦国期になると横 田郷は真里谷武田氏の支配を受け、武田氏の流れをくむと言われる葛田氏が在地領 主となっていた可能性があります。 葛田氏の初代とされる信恒は、 里見義堯と戦ったのち 里見氏の軍門に下り、 横田郷を与えられたと伝わります。 小坪館の全体構造については不明ですが、 小坪館の中心地と思われる中川小学校 東南には横田神社が鎮座していて、そのまわりには土塁や堀の痕跡にも見える跡があるこ とから、 横田神社も小坪館の一部であった可能性が考えられます。 小坪館北側には戦国期には存在したと考えられる街道 (久留里街道) が通り、街道 沿いには上宿・中下 (宿) の地名が残ります。 葛田家に伝わる古文書からは、天正8 年(1580年) 横田に新宿が立てられ、里見氏がこれについて 「不入」 を承認すると ともに市の開催を要請したことがわかっています。 さらに、小坪館の北西には横田郷へ入る北の入口を意味すると思われる 「北口城」 があります。 北口城は松川、 小櫃川の両河川の水運及び街道の往来を直接押さえる機 能を担っていたと思われます。 小坪館は北口城と連携し、 横田郷の中心的城館の役目 を担っていたと思われます。 小坪館の北を流れる松川は、遡航すると川原井城や川原井里見城へと繋がるとともに、 最上流部より丘越えすると養老川水系等へと繋がる重要な水上交通網でした。 小坪館 はそれらの城とも連携していた可能性があり、 小櫃川はもとより、 松川における水上交通 網は中世期においては小櫃川同様の重要性を持っていたと思われ、小坪館を考える上 で欠かせない鍵になるといえます。 ⬛︎ 御城印デザインのご説明 小坪館が築かれた横田郷は、 中世期には上総国畔蒜荘の荘園が広がっていたこと が調査により分かっています。これにより、 15世紀前半の横田郷の姿が具体的に復元さ れました。 御城印は横田郷の復元鳥瞰図 (笹生衛氏作成)をモチー フにするとともに、街道や地形の分かる地図をデザインしました。 あわせて、戦国期には真里谷武田氏、続いて里見氏の支配下 にあったと推察されることから武田氏と里見氏の家紋を配置しました。 小坪館の城主と伝わる武田一族葛田氏も武田氏の家紋 「四ツ菱」 を使用しています。
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76 真武根陣屋
¥400
⬛︎ 真武根陣屋のご説明 真武根陣屋は嘉永3年(1850年)に築かれた請西藩の陣屋で、 近世の木更津湊か ら約2km南東に入った標高約50mの台地上に築かれました。 請西藩の陣屋はもとは 1. 5km北西の貝渕にありましたが、 林忠旭 (ただあきら)が藩主のときに間舟台に移し、「真武根陣屋」と呼ばれました。 安政元 (1854)年、 忠旭は弟の忠交 ( ただかた)に家督を譲りましたが、 忠交は慶応3 (1867) 年に没したため、 忠旭の子、 忠崇 (ただたか)が藩主となりました。 ちなみに忠交 は慶応2年正月、 伏見寺田屋に泊まった坂本龍馬を捕縛すべく指揮を執った人物です。 風雲急を告げる幕末の慶応3年(1867年) 請西藩主となった林忠崇は、 戊辰戦争 の折、藩主でありながら自ら脱藩し、陣屋に火を放ち、旧幕府遊撃隊の要請に応じ 出陣しました。 文武両道で優れた人物であったといいます。 出陣後、 各地を転戦しま すが、 最後は仙台藩の説得に応じ降伏。 請西藩の領地は没収され、藩は消滅し、 陣屋も廃されました。 その後、 長寿を全うした忠崇は、 昭和16年(1941年)まで生き、「最後の大名」の異名 をとりました。 真武根陣屋跡に立つと木更津の街並みと東京湾が望めます。この目の前の海を、 そして移りゆく時代の波を忠崇はどのような思いで見ていたのでしょうか。 ⬛︎ 御城印デザインのご説明 林氏は信濃小笠原氏の分流といわれ、戦国期に徳川氏に帰属しました。 家康に従い房総へ入った林吉忠 (よしただ)から数えて八代目の忠英(ただふさ)のときに、 将軍家斉の側近として頭角を現し、大名となりました。 伝承によれば、 松平家 (後の徳川家) の祖である松平有親・親氏父子が永享 の乱に敗れ、諸国を流浪している際、 信濃国林郷 (現在の長野県松本市)にて旧 知の武士である林光政が彼らを匿まったといいます。そして、自身も食に窮する中、 光政は雪中に兎を捕らえて有親・親氏父子に振る舞いました。 家康は、この先祖に対する恩に感謝し、 毎年正月には林家が将軍に兎の吸い物を献上し、将軍から新年一番の酒を賜るという 「献兎賜盃」 を徳川幕府として儀式 化しました。 この儀式は徳川家においては無上の吉例とされ、 林家にとっては、徳川 家中において松平家に一番功績のあった家臣が林家であるということを顕示する意 味で大きな意義を持ちました。 途中、 中絶はありましたが、 「献兎 「賜盃」は幕末まで廃されることなく続けられました。 林家では家紋 にこの栄誉を表すべく、 拝領紋の「丸に三巴」の下に「一」の 文字を加えました。 御城印にはその家紋 「三つ巴下に一文字」、および「三階菱」 をデザインし、林家の誇りである 「献兎賜盃」 を描いた絵をモチー フにしました。
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75 真里谷城
¥400
⬛︎ 真里谷(まりやつ) 城のご説明 千葉県木更津市 真里谷城は、 東京湾に注ぐ小櫃川の支流である武田川の上流部に位置する 丘陵に築かれました。 真里谷城は山間部に位置しますが、城下には市原に通じる 街道も通り、 そこから小櫃川の水運を利用すれば、 久留里、 亀山方面へと通じ、 さらに木更津方面に出れば江戸湾の水運も利用できる交通の要衝地です。 享徳の乱に際し、 古河公方足利成氏によって房総半島に送り込まれた武田氏 が上総に進出するための重要な足がかりとして築いた山城です。 甲斐の守護、 武田信満の子で成氏の近臣だった武田信長は房総半島に勢 力を持っていた関東管領上杉氏に対するため 「足利成氏朝臣旗」 を手に、里 見義実とともに房総半島に入部しました。 上総武田氏はまたたく間に上総を制し、 長南城 (長南町) を本拠に各地に城 を取り立て勢力を拡大していきました。 その中で、 長南城と並んで中心的な城だっ たのが真里谷城です。 真里谷城の武田氏は「真里谷武田氏」 とも呼ばれ、中心的な一族として発展していきました。 天文6年 (1537年)、 真里谷武田氏の中で争いが起き、 峰上城主の武田信 隆が真里谷城の信応に対抗しました。 これが里見義堯と北条氏を巻き込んだお 家騒動となり、これを機に武田氏の勢力が弱まっていき、 房総半島は里見氏対北 条氏の対立という時代に動いていくことになります。 ⬛︎御城印デザインのご説明 真里谷城跡は現在 「少年自然の家キャンプ場」 になっており、 その建設時 の調査では掘立柱建物跡や陶磁器、 焼けた壁土などが発掘されています。主 郭から出た貿易陶磁は、 多くが15世紀後半から16世紀前半のもので、 真里谷 武田氏の威信財として相応しい高級な遺物といえます。そのように上総武田氏の 中心的城郭だった真里谷城の御城印には武田氏の家紋 「四菱」 を配置さ らに地元に伝わる「武田三河守」 座像をデザインするとともに、堀や土塁、 虎口 などの遺構が良好に残る真里谷城の鳥瞰図をモチーフにしました。 真里谷武田氏内紛時の 「真里谷城」 については、まだ 不明なことが多く今後の研究が待たれます。 また、市内にある前方後円墳「金鈴塚古墳」から出土し た 「金鈴(国重要文化財) 」 は木更津が古代から重要な地 であったことを示すものとして取り入れました。
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74 松山城
¥400
⬛︎ 松山城のご説明 千葉県匝瑳市 松山城は松山神社が鎮座する台地上に築かれました。 「松山」「中台」という大字にまたがり広範囲に渡って城郭や家臣屋敷などが置かれ、集落が 形成されていたと思われます。かつては台地を取り囲むように施された土塁の 断片が見て取れたといい、 現在、 松山神社周辺に曲輪や空堀、土塁らしき ものが残ります。 さらに、「御門」「大木戸」 「馬場」 「蔵屋敷」 「殿ノ内」 「花輪」「堀ノ下」 「松葉的場の転訛とみられる)」 などの城郭に関連する地名が周辺に残っていることからも、台地上の広範囲に渡り築かれた城であることが推察できます。 松山城は千葉一族の松山氏の居城と伝わります。 松山氏は千葉常胤の弟、椎名胤光の子の胤平を祖としており、 椎名氏は千葉荘椎名を領していました。 頼朝による木曽義仲討伐軍、平家討伐軍の中に椎名胤平 (松山胤平) の名前が見え、胤平が頼朝に従って戦っていたことがわかります。それらの功 により、椎名氏は南条荘 (匝瑳市) を与えられ、 胤平は松山に入ったと考えられています。 その後も松山は中世を通じて松山氏の領地として続き、戦国期には松山 の台地上に城が築かれました。 詳細は不明ですが、 松山氏は戦国時代末期には主家である千葉氏を通じて小田原北条氏に属していたと思われます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 松山城が築かれた台地には、八日市場、 生尾、 吉田、 佐倉を結ぶ街 道が通っています。 江戸時代には 「上宿」 「中宿」 「下宿」 「横宿」の存 在が確認でき、それらの宿の形成は中世に遡る可能性も指摘されています。 このように松山の台地は、古くからの交通の要衝でした。 街道を取り込むように築かれた松山城の御城印は、 街道と集落をイメージ しました。そして、この地域の中心であり、平安時代の創建と伝わる松山神 社の光景をモチーフにしました。 江戸時代において、 松山神社は徳川幕府 より扶持米が下される格式を有する神社であり、このような地 位の神社は下総国では銚子市の猿田神社と松山神社の みです。 あわせて御城印には、 千葉一族の家紋 「月星」 と、 千葉一族を出自とする松山氏の家紋 「九曜」 を配置しました。
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73 吉橋城
¥400
⬛︎ 吉橋城のご説明 千葉県八千代市 吉橋城は印旛沼水系である桑納川の南に位置する台地の先端に築かれ ました。 現在、貞福寺がある台地一帯が吉橋城の城域とされています。 貞福寺は真言宗の寺で、応永元年(1394年)に創建されたとされます。 江 戸時代に書かれた『貞福寺文書』には吉橋城に関わる記載があったとい われますが、残念ながら現存していないため詳細は不明です。 吉橋城が築かれた台地の付け根には八幡神社が建っていて、この場 「所に「大木戸」があったと伝わっています。他にも周辺には 「花輪」など、 城の存在を連想させる地名が残っています。 築城年代や城主等の詳細は不明ですが、 高木 (高城) 伊勢守胤貞が城 主だったと伝わっています。 高木 (高城) 氏は小金城主高城氏との繋がり が指摘されています。 小金城主高城氏は千葉氏の庶流である原氏の家臣 であることから、 高城氏に繋がる高木 (高城) 氏が原氏の居城であった臼 井城の西方の防衛として吉橋城に入ったことが推察されます。 真福寺の北側には土塁で囲まれた曲輪があり、周囲には空堀、櫓台も 残っていて、 城域はかなりの広さだったと思われます。 吉橋城はこの地 域の中心的な城郭として、 東方 2kmの距離にある同じく原氏の家臣村上 氏の米本城と連携して機能していたことが考えられます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 吉橋城の御城印には、 千葉一族の家紋 「月星」 と 「九曜」をデザインし ました。 吉橋城の周辺には、 千葉一族が信仰した 「妙見」 が祀られ、「妙 「見橋」などの名が残ります。 それらのことからも、伝承の通り、 千葉一 族の系統と称する高木 (高城) 氏が城主だった可能性が高いです。 あわせて、吉橋城が築かれた台地の地形が分かる地図をデザインしました。 桑納川などに囲まれた要害であることがわかります。 吉橋城にはいくつかの落城伝説や合戦の伝承がありま す。 詳細は定かではないものの、地元ではそれらの伝承 を大切にしてきました。 そのひとつに、 吉橋城落城の際 にたくさんの血が流れ、それらの戦死者を弔うために祀ら れたという「血流地蔵」 の伝説があります。 御城印はそ この伝承をモチーフにし、お地蔵様の姿を描きました。
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72 米本城
¥400
⬛︎ 米本城のご説明 千葉県八千代市 米本城は新川の東岸に位置する舌状台地に築かれました。 後世の土取りに よって、先端は原型をとどめていないものの、 土塁、 土橋、 櫓台などの遺構が 良好に残っています。 米本城の東側には「上宿、 中宿、 下宿」の地名が残っていて、これらの宿 の形成は中世まで遡ると思われます。このことからも、米本城が街道に面した 要衝に築かれたことが分かります。 米本城の南西にある根小屋集落の先には、 「城橋」 の地名が残り、新川を 渡る橋が架けられ、渡河点であったことが推察されます。 まさに米本城が陸路 と水路の結節点を押さえる役目を担っていたことが分かります。 米本城の築城等の詳細は不明ですが、 村上氏の城と伝わっています。 村上 氏は千葉氏の庶流である原氏の家臣であることから、原氏の居城である臼井 城の防衛の役目を担い、 米本城に入ったと考えられています。 村上綱清が城 主のときに落城し、 綱清が討ち死、もしくは自害したという伝説も残っています。 それらの真偽は定かではありませんが、 城内から炭化米が出てきたことや、新 川を挟んだ対岸に太田道灌が陣を敷いたという言い伝えがあることなどから米 本城がなんらかの戦いの舞台になったことが推察されます。 米本城はこの地域の中心的な城郭として、西方2kmの距離にある同じく原氏の家臣高木 (高城) 氏の吉橋城と連携して機能していたことが考えられます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 米本城の御城印には、 千葉一族の家紋 「月星」 と 「九曜」をデザインしました。 米本城主村上氏は、鬼門に米本神社、 裏鬼門に七百余所神社を置きました。 どちらも妙見信仰です。 村上氏は千葉一族の出自ではないとされているものの、 主筋にあたる原氏の信仰のシンボルを城内に置いたと思われます。村上氏は 信濃国村上一族を出自とするとも伝わるため、 信濃国村上氏の家紋をデザイン しあわせて飯綱権現をモチーフにしました。 米本城と新川を挟んだ対岸に 飯綱神社があり、 信濃国村上氏は飯綱権現とゆかりが深いことから、 信濃国村上氏と米本城主村上氏の繋がりを感じる ことができます。また、この飯綱神社は太田道灌が陣を置い たという伝承がのこる場所です。 そして、米本城城山の地形が分かる地図をデザインしまし た。新川などに囲まれた要害であることがわかります。
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71 久留里城
¥400
⬛︎ 久留里城のご説明 久留里城 (千葉県君津市) は、小櫃川流域に開けた交通の要衝地に築かれています。 房総半島 のはぼ中央にあたるこの地は古くから経済の中心地でもありました。 史料上から確認できるの は里見氏が城として取り立てた頃からです。 江戸湾を押さえるために佐貫城を拠点とするはず が、北条氏との戦いの中で中央部に追いやられる形で久留里城が里見義堯の拠点となったと考えられます。 そのような情勢下の中で、 久留里城は永禄3年(1560) には北条軍に包囲されています。しかし、 義は長尾最虎(上杉謙信)に援軍を頼み、 窮地を脱しました。 天正2年(1574) 義堯が城内で死去すると、 久留里城の勢力は衰退、 家中の一支城という位置づけになっていきました。 家康の関東入部以降は大須賀氏、土屋氏、 黒田氏が入り、 近世城郭として整備され、 幕末まで 存続しました。 ⬛︎御城印デザインのご説明 御城印は、久留里城に建つ模擬天守をモチーフにしました。 そして、模擬天守の前には天 守台跡の基壇をデザインしました。 発掘調査によると、本丸跡から掘立柱建物跡が出ており、 まさに中世里見氏のロマンが詰まっているといえます。 ただ、 遺物が少なさなどから、 山 頂は有項の際の詰城としての利用が推測できます。 さらに里見氏の家紋「二つ引両」 と、 正源寺所蔵の里見義堯座像を配置しました。 幕末まで存続した久留里城の姿をイメージしています。
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70 和田城
¥400
⬛︎ 和田城のご説明 千葉県香取郡東庄町 和田城はかつての椿の海から入り込んだ入江左岸の丘陵に築かれました。 周辺を湿地に囲まれた要害だったと思われ、 「舟戸」の地名が残ることから、 水運と密接に繋がっていたことが分かります。 谷を挟んで南方には桜井城、 入江を挟んで北東に大友城があることからこの地域の重要性が分かります。 さらに、須賀山城、 森山城、 小見川城などの主要城郭へ続く北進する街 道が付近を通っていて、まさに水陸の要衝地です。 和田城の築城等の詳細は不明ですが、 千葉一族である上代(かじろ) 氏の居城だったと伝わり、 城内には千葉神社が鎮座しています。 千葉神社 の北方直下には三日月形の横堀が掘られ、さらに一段下に横堀が入り、そこ から雛壇状の曲輪が続いています。その下は根小屋集落が形成されていた と考えられ、今でも当時の雰囲気を色濃く残しています。 和田城は主要な2つの曲輪で形成され、その曲輪を守るように横堀、土塁、腰曲輪が施されていて、戦国時代の城郭の姿を良好に残しています。 ⬛︎御城印デザインのご説明 千葉一族である上代氏の居城と伝わる和田城の御城印には、千葉氏の 家紋 「月星」、「九曜」をデザインしました。 そして、 椿の海へと続く水上交 通の要衝地だったと思われることから、近くを船が行き交う様子を描きました。 和田城には合戦が行われた伝承が残っています。 真偽のほどは定かでは ありませんが、正木氏の下総侵攻の際にこの地域がかなり緊迫した状況下に 置かれたことが推察され、 戦死者を祀ったと伝わる「左右大神」 などが残る ことから、和田城周辺で何らかの戦闘があったことが推測できます。 そのため、 御城印には和田城で奮戦する上代氏とその家臣団をイメージしました。 なお、東庄町発行の和田城の御城印は、日本のみなら ず海外でご活躍の英国王立美術協会の名誉会員でもある 岩井颯雪様にご揮毫いただきました。