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⬛︎ 石浜城のご説明 東京都荒川区
石浜城は隅田川 (古利根川) 沿いの水上交通の発達した地域に築かれました。 かつては、橋場 (荒
川区・台東区)、 今戸、 待乳山 (台東区) 周辺一帯が広く 「石浜」と呼ばれていたといいます。 石浜城の比定地については諸説ありますが、現在の石濱神社 (荒川区南千住三丁目) が石浜城の 有力候補地とされています。
石浜周辺は武蔵国と下総国の境に当たり、 古代東海道上に位置し、 川を渡る 「渡し」 があり、水陸
交通の要衝で都市的な場として発展しました。 鎌倉時代には江戸氏の拠点であり、室町時代には江戸庶家である石浜氏の本拠地だったと考えられます。 石浜城の築城年代や築城主などは不明ですが、交通の要衝の地に築かれたと推察されます。
南北朝時代文和元年1352年は足利尊氏と新田義貞の遺児である南朝方の新田義興との武蔵
野合戦で、 石浜に逃れた尊氏がここで立て直しをはかり、南朝方の新田軍を破りました。 享徳の乱(1454年)に端を発した千葉一族の内紛が起きると、 当主千葉胤直ら千葉宗家が傍流である 馬加康胤らに襲われ、 多古 (千葉県香取郡多古町) に逃げ込む事態となりました。 馬加胤らはさらに 多古を攻め、直と子の宣胤は自刃直の弟胤賢も自刃しました。このとき、胤賢の子である実胤、 自胤(これたね(※1))は市河城に脱出しましたが、 市河城も落とされ、武蔵国に逃れました。扇谷上杉氏の家宰太田道灌の支援を受け、 実胤が赤塚城に自胤が石浜城に入り、 武蔵千葉氏となりました。 (※2) しかし、勢力をそがれた武蔵千葉氏の石浜の維持は困難であったと思われます。 そのため、 扇谷上杉氏の庇護のもと、千葉宗家奪還を目指し本佐倉城を拠点とした下総千葉氏と戦いましたが下総への復帰は叶いませんでした。 その後、 武蔵千葉氏は小田原北条氏に属し、北条氏から養子を迎えています。 天正18年(1590年) に北条氏が豊臣秀吉に攻められて滅亡すると同時に武蔵千葉氏も没落し石浜城も廃城となったと思われます。
※1 自胤の読みに関しては、「千学集抜粋」 に読みが書かれており、それによって「これたね」と読むことが定説となっています。
※2:「鎌倉大草子」 などの書物では、実胤が石浜城に、 自胤が赤塚城に入城したとされますが、研究の結果、この内容は否定されています。
⬛︎ 御城印デザインのご説明
石濱神社は神亀元年(724年) に聖武天皇の勅願で創建され、鎌倉時代以降は武家から篤い信仰を受け、江戸時代は東都の名所として知られました。 「神明さん」 と親しまれ、 ご祭神は伊勢神宮と同じ 天照大御神 豊受大御神です。 「江戸名所図会」に描かれた境内の俯瞰図をデザインしました。 石浜城付近にあった渡しは、「隅田の渡し」 橋場の渡し」 と呼ばれていました。 治承4年(1180年)、 石橋山の戦いで平家軍に敗れた源頼朝は、安房国上陸後に鎌倉を目指して進軍しますが、その際にこ この付近に浮橋を架けて渡ったとされ、これが 「橋場」の地名伝承となっています。そのことから御城印は、隅田川を渡る頼朝の錦絵 「江戸名所古跡伝」モチーフにしました。
千葉氏伝来の宝珠を祀った石濱神社内の真崎稲荷に関する故事、武運守護を宝珠に祈願する千葉胤直の姿を描いた「東京開化名勝之内 千葉介胤直石浜神明之古筆』 をモチー フにしました。胤直は傍流の馬加康に攻められ戦死しましたが、 甥の自胤、実胤が武蔵国に逃げ、 自胤が石浜城に入ったことから、無念の死を遂げた胤直が一族の存続と繁栄を真崎稲荷の祭神に祈るという場面が錦絵に描かれたのかもし れません。あわせて千葉宗家及び、 武蔵千葉氏の家紋を配置しました。
なお石浜城の御城印は、石神社職員の書家鈴木明空 (めいくう) 様にご揮毫いただきました。
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