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83 次浦八郎常盛館

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⬛︎ 次浦八郎常盛館のご説明 千葉県香取郡多古町
次浦八郎常盛館と呼ばれる城館は、次浦集落から西に外れた次浦字大 峰の杉林の中にあったとされます。 周囲の地形を削り出して館を造営したと 思われ、現地には雛壇状の平場が残っています。

『神代本千葉系図』によると、次浦八郎常盛は千葉常兼の弟粟飯原五 郎家常の四男とされますが生没年等の詳細は不明です。 常盛は源義家に 従い、後三年の役に出陣し武功を挙げたといいます。

次浦集落の北側には次浦城とよばれる土塁と空堀に囲まれた方形の城館 があり、現地に遺る形態から戦国時代の城館と推察されています。そのた め、次浦氏の早い段階の居館がここ次浦八郎常盛館で、その後、いずれ かの時期に次浦城を築いて居館を移したとも推測されています。

⬛︎ 御城印デザインのご説明
次浦城は千葉一族次浦氏の居館とされていますが、それ以前は藤原親政 の館があったとも伝わっています。 藤原親政は 「千田親政」とも称され、 千田庄領家として下総国に下向していました。 親政の居館は内山 (匝瑳市) と次浦にあったと伝わっていることから、 千葉一族次浦氏が次浦に入り居 館を築く以前は親政の館が次浦にあったと考えられています。 その親政の 居館が次浦八郎常盛館の前身とも指摘されています。

親政は平清盛の妹を妻としていることからも、平家政権の中枢を担う人 物だったと考えられます。そのことから、多古町を中心として広がる千田庄 が古くから、下総国統治のために重要な地であったことがうかがえます。

治承4年(1180年)、 親政は石橋山合戦の敗戦後に房総半島に逃げ てきた源頼朝や頼朝を支持する千葉氏を討伐するため、平家方として内山 から出陣しました。 そして、 結城浜 (千葉市) 千葉成胤率いる千葉氏の 軍勢に敗れ、次浦の館に逃げ帰ったと伝わります。 その後、親政は源氏方 に捕えられ、処刑されたとも伝わります。親政なきあとの千田庄は千葉氏 の所領となり、 千葉一族棟梁の常胤により、弟の胤幹、 胤幹の子胤氏の 領地となりました。

このように、次浦八郎常盛館が平家政権ゆかりの城館 であることから、御城印には平家の家紋を入れました。 そ して、その後の領主である千葉一族の家紋 「月星」「九曜」 を配置しました。さらに平清盛と千葉常胤という次浦にゆ かりのある平家、 千葉一族の二家を象徴する2人をモチー フにしました。

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