-
69 埴谷城
¥400
⬛︎ 埴谷城のご説明 千葉県山武市 埴谷城は山武市内を南北に流れる境川の左岸に広がる台地上に 築かれました。 標高は40mほどですが、周囲はかつて水田となっていて、 湿地に囲まれた要害です。 台地の突端を利用し、地形に沿った五角形の単郭構造となってい て、腰曲輪が周りを囲んでいます。折れを伴う土塁や堀の痕跡が見て取れます 。 築城等の詳細は不明ですが、 上杉禅秀家臣の埴谷氏や、 千葉一族宍倉氏との関連が指摘されています。 埴谷氏は、秩父平氏を出自とすると伝わり、 関東管領を務める家 柄の犬懸上杉氏の執事だったといわれています。 犬懸上杉氏は上総 国守護を務めていたため、 埴谷氏がいずれかの段階で上総国埴谷 に入植したと考えられます。 重氏の代に、 主人である犬懸上杉氏憲(禅 秀)が鎌倉公方足利持氏に対して反乱を起こした「上杉禅秀の乱 (1416 年)」 が勃発しました。 翌年、乱は鎮圧され、 禅秀は鎌倉で 自害しましたが、上総国内で禅秀方の残党が処遇に対する不満から 上総本一揆とよばれる一揆を形成し、鎌倉府の軍勢と戦いました。 そ の上総本一揆の拠点のひとつが埴谷城だったと考えられています。 ⬛︎御城印デザインのご説明 埴谷城の御城印には、千葉氏の家紋 「月星」、 千葉一族宍倉氏 の家紋 「九曜」 と、 埴谷氏の主家である上杉氏の家紋 「竹に雀」 をデザインしました。 埴谷氏は 「鍋かむり日親」で有名な、 日蓮宗の 高僧日親 (1407年-1488年) を輩出した家です。 日親は、埴谷城下 の妙宣寺で修行したといいます。 あわせて、 埴谷城の築かれた台地の地形が分かる 地図と、 上総本一揆の拠点のひとつだった埴谷城に 集まった埴谷重氏をはじめとする上杉禅秀派の姿をイ メージしました。
-
68 松尾城
¥400
⬛︎ 松尾城のご説明 千葉県山武市 松尾城は明治2年に築かれた松尾藩の城です。 明治元年に徳川家が駿河、 遠 江に移封になったことを受けて、 遠江国掛川藩は上総国に国替えとなりました。 当初 は芝山観音経寺 (山武郡芝山町)を仮藩庁としたため、柴山藩と称していましたが、 その後、大堤村、猿尾村、 八田村、 田越村の村域に新たに城郭を築き、藩庁と 城下町を建設することになりました。 新たな城郭は、 九十九里浜を望む木戸川東岸 の台地に占地され、 西洋の稜堡式多角形要塞の建築が始まりました。 そして、掛川城本丸の南にあった 「松尾池」、 その南の 「松尾曲輪」 に因み、 城名を「松尾城」としました。 明治3年に藩庁 (現松尾自動車学校) と藩主の居 館である御住居地 (現松尾中学校)、そして城下町が完成すると、 柴山から移り、 藩名を「松尾藩」に改称し、太田資美を藩主とする松尾藩5万石が成立しました。 しかし、明治4年に廃藩置県を迎えたため、松尾藩はその他の諸藩とともに松尾 県に組み込まれ、 松尾城は未完のまま廃城となりました。 松尾城は当初の計画では四稜郭の予定でしたが、地形等の制約により、最終 的には三稜郭となりました。 三稜郭は日本では松尾城が唯一となる貴重な遺跡です。 ⬛︎御城印デザインのご説明 松尾城の御城印には、松尾藩主太田氏の家紋 丸に桔梗」 をデザインしました。 松尾藩が成立したときの当主資美から数えて15代前の当主が道灌 (資長)にあた ります。 道灌は桔梗紋を好んだと伝わっています。あわせて、 「違い鏑矢」の家紋も デザインしました。この家紋は桔梗紋よりも古い時期から太田家で使われていたともいわれています。 そして、「臨時築法四稜城之図」 をモチーフにしました。これは松尾城の計画絵 図と考えられていましたが、調査の結果、 16世紀初頭にオランダが植民地に築いた 城塞とほぼ同じであることが判明しました。 この絵図の入手経路などは不明なものの、 松尾城築城には蘭学が大きな影響を及ぼしたことが分かる貴重な 図面といえます。 さらに御城印には掛川城の天守をデザインしました。 掛川城から 移封になりながらも、新たな城名と藩名に「松尾」の名を付けた 藩主と藩士らの想いが偲ばれます。
-
67 飯高砦
¥400
⬛︎ 飯高砦のご説明 千葉県匝瑳市 飯高砦は現在の妙福寺裏山に築かれた城郭で、山頂には飯高神社が鎮座し ています。 飯高砦の詳細は不明ですが、 現在の飯高寺 (はんこうじ) 周辺が城 域とされている飯高城の南方 800mに位置するため、 新砦、 天神砦などと連携し て飯高城防衛を担う城郭群の一つだったと考えられます。これらのことから、周辺 の城郭群を含めた広義の飯高城はかなり大規模であると考えられ、台地全体が 広範囲に渡り城郭化されていたと推察されます。 麓の妙福寺は谷戸式居館の様相を呈することから、山麓に屋敷、 山頂に防衛施設が築かれていた可能性も指摘されています。 鎌倉時代中期から南北朝期において、当地は千葉一族である飯高氏の本貫 地で、戦国期には平山刑部少輔が飯高城を居城にしていたと伝わっています。 平山氏は千葉氏、ないしは小田原北条氏に属していたとされるため、 飯高城は 小田原の役をもって廃城となり、 周辺の城郭群もその役目を終えたと考えられます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 飯高砦、 天神砦、 新砦などの城郭群などが広義の意味での飯高城を形成し ていたと思われることから、 飯高城の築かれた台地や地形がわかる大正時代に描 かれた飯高寺の絵図をモチーフにしました。 飯高寺はかつての飯高城の台地に築 かれています。 あわせて、 飯高氏の出自である千葉氏の家紋 「月星」、 千葉一族の家紋「九曜 」 をデザインしました。 飯高砦の麓に建つ妙福寺は、 延慶3年(1310年)に新藤 太縦空 (たじゅうくう) が妙見菩薩を祀ったとされていて、妙見信仰は千葉一族 が深く帰依していることから、 千葉一族との関係が垣間見えます。
-
66 天神砦
¥400
⬛︎ 天神砦のご説明 千葉県匝瑳市 天神砦は飯高城の東方 300mほどの台地に築かれた城郭で、 飯高城防衛を 担う城郭群の一つだったと考えられます。 天神砦は新砦、 飯高砦などと連携して いたと思われることから、 周辺の城郭群を含めた広義の飯高城はかなり大規模で あると考えられ、台地全体が広範囲に渡り城郭化されていたと推察されます。 現在の天神砦には、土塁、 堀切、 竪堀遺構などが良く残り、戦国期の城郭 の構造を小さい城郭ながらコンパクトに学び取れる貴重な城郭遺構といえます。 鎌倉時代中期から南北朝期において、 当地は千葉一族である飯高氏の本貫 地で、戦国期には平山刑部少輔が飯高城を居城にしていたと伝わっています。 平山氏は千葉氏、ないしは小田原北条氏に属していたとされるため、 飯高城は 小田原の役をもって廃城となり、 周辺の城郭群もその役目を終えたと考えられます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 飯高城防衛のための城郭である天神砦の御城印には、 飯高城の築かれた台地や地形がわかる地図をデザインしました。 あわせて、 飯高氏の出自である千葉氏の家紋 「月星」、 千葉一族の家紋 「九曜」 をデザインしました。 さらに、 天神砦の主郭には天神社が鎮座することから、梅の 花をモチーフにしました。 天神社の境内に立つ巨木もデザインしました。
-
65 飯高城
¥400
⬛︎ 飯高城のご説明 千葉県匝瑳市 飯高城は借当川北岸の標高約36mの丘陵に築かれました。 現在の飯高寺 ( は んこうじ) 周辺が城域とされていて、 南方には飯高城の支城とされる飯高砦、 新砦、 さらに東方には天神砦が築かれています。これらのことから、広義の飯高城はかな り大規模であると考えられ、台地全体を城郭化することで連携して飯高城の防衛に 当たっていたと推察されます。 鎌倉時代中期から南北朝期において、当地は千葉一族である飯高氏の本貫地 でした。そのため、 飯高氏が築城したとの伝承もありますが詳細は不明です。 戦国期には平山刑部少輔が飯高城を居城にしていたと伝わっています。 平山 氏は千葉氏、ないしは小田原北条氏に属していたとされるため、 飯高城は小田 原の役をもって廃城となったと考えられます。 平山刑部少輔は日蓮宗に篤く帰依しており、 天正19年 (1591年) に城地の すべてを寄進し、日蓮宗の檀林として飯高寺が開かれたといわれています。 ( 飯高 寺は天正8年、 平山刑部少輔を開基としています。) 周辺には 「城下 (ねごや)」 「鳴子山」 「腰巻」など、 城郭に関連する地名が残っています。さらに飯高寺の境内には、 空堀、 土塁、 腰曲輪などの城郭遺構も残っていて、戦国期の飯高城の構造や規模がわかります。 ⬛︎御城印デザインのご説明 飯高寺は戦国時代の終わりから明治7年(1874年) まで、 日蓮宗の学問所 である檀林として栄えました。 日本三大檀林と呼ばれ、多くの学僧を輩出しました。 この檀林が立正大学の前身です。 飯高寺の境内全体が県指定史跡に指定され ています。 飯高寺の地にかつて存在した飯高城の御城印には、江戸時代に建てられた山 門をモチーフにしました。あわせて、 飯高氏の出自である千葉氏の家紋 「月星」、 千葉一族の家紋 「九曜」 をデザインしました。さらに、徳川家の家紋 「三つ葉葵」 をデザインしました。 飯高寺は徳川家康から寺領 30 石の寄進を受け、さらに家康 の側室 「お万の方」 と繋がりが深い寺でした。 お万の方は、 正木氏の出で、日蓮宗に深く帰依しており、 飯高寺に今に残る 妙見菩薩もお万の方の奉納によるものです。そのことから、御城 印には、妙見菩薩をイメージし描きました。さらに、お万の方は 講堂を寄進するなど、 飯高檀林の繁栄に尽力しました。
-
64 沼かけ城
¥400
⬛︎ 沼闕 (ぬまかけ) 城のご説明 千葉県香取郡東庄町 沼闕城は、 「東庄県民の森」 となっている比高20mの台地に築かれ、かつて存在した「椿の海」に向かってそびえ立っていたと思われます。 大部分が公園化して原形が失われてしまっている ものの、 要害だった趣を十分に残しています。 現在、 補陀洛山福聚寺が建つ場所は、沼闕城の主郭だったと思われ、周囲には土塁、 空堀、 腰曲輪などの遺構が残ります。 北方は 「香取の海」 に面し、 陸奥に繋がる交通の要衝でもありました。 源頼朝の鎌倉幕府設立に尽力した千葉 (東) 胤頼の三男盛胤が居館を築いたのが始まりとされ、その後も千葉氏の庶流である東氏が沼闕城主となりました。 東氏は戦国時代には主家の千葉一族とともに小田原北条氏に属し、 天正18年(1590年) の小 田原合戦で滅びたとされます。 沼闕城はその地名から、別名「小南城」とも呼ばれ、この小南には徳川家康の関東入封の際、松平 (久松) 定勝が3000石で入部しました。 定勝は家康の義弟で、 伊予松山藩祖となる人物です。 このことからも、沼闕城が築かれた小南の地の重要性がわかります。 ⬛︎御城印デザインのご説明 沼闕城の南方にはかつて 「椿の海」 が広がっていました。 椿の海は、海上(うなかみ)、香取、匝瑳(そうさ) の3郡にわたり、東西10kmを超える大きな湖でした。 寛文11年(1671年) に、 鉄牛和尚が干拓事業を完成させました。 それにより、18の村ができ、「干潟八万石」 と呼ばれる一大穀倉地帯となりました。 椿の海は、城下にある「八丁堰」として名残りをとどめています。 その功績により、 鉄牛和尚は寺地を幕府から寄進され、 福聚寺を建て晩年を過ごしました。 御城印には椿の海と、その椿の海に向かって張り出す沼闕城の台地をモチーフにしました。 そして、 千葉一族である東氏の家紋 「九曜」をデザインしました。 なお、東庄町発行の須賀山城、 沼闕城の両御城印は、日本のみならず海外でご活躍の英国王立美術協 会の名誉会員でもある岩井颯雪様にご揮毫いただきました。
-
63 須賀山城
¥400
⬛︎ 須賀山城のご説明 千葉県香取郡東庄町 須賀山城は中世には「香取の海」と呼ばれた広大な内海に面する台地の上に築かれました。 標高50mほどの 城山の周囲は、かつては低湿地に囲まれていたと思われ、 天然の要害となっています。 源頼朝の旗揚げの際、ともに戦って功を上げた千葉(東) 胤頼が、 東庄と三崎庄 (旭市) を拝領しました。 そ して居館を築いたのが須賀山城の始まりと考えられており、代々、東氏の居城として利用されていきました。 ちなみに胤頼は、三浦義澄とともに源頼朝に挙兵をすすめたとされる頼朝の側近中の側近です。 その後、須賀山城が手狭になったためか、西側に森山城が築かれ、 両城が一体をなしながら戦国の城へと 改修整備されたと思われます。 千葉氏が小田原北条氏に属すと、 常陸の国境である須賀山城、 森山城はさらに重要性が増し、 須賀山城は森 山城の「外郭部」としてさらに改修整備されていったと思われ、 城内には戦国期の遺構が良好に残っています。 西麓の東氏の菩提寺である芳泰寺には、胤頼夫妻のものと伝わる墓が残っており、 また、北東麓の東福寺は胤頼の父である千葉常胤ゆかりと伝わる薬師如来を本尊としています。 さらに、この寺には天正6年(1578年) の千葉邦胤に関する古文書も伝わっており、 戦国時代になってもこの地域と千葉一族の繋がりの強さがわかります。 ⬛︎御城印デザインのご説明 御城印には、連携して機能していたであろう須賀山城と森山城の築かれた台地と、かつて北方に広がって いた「香取の海」をデザインしました。 そして、 千葉一族である東氏の家紋 「九曜」 を配置し、東常縁の絵図をモチーフにしました。 常緑は、東氏のもう一つの所領であった美濃国の篠脇城主でした。 享徳の乱の際に下総で千葉氏の内紛 が起きると、室町幕府から東国に派遣され、 森山城に入ったとされます。 また、 東氏は代々和歌の家柄で、 特に常縁は古今伝授を行えるほど、当代きっての一流の歌人でした。 東氏の祖である胤頼も和歌や文化に 秀でていて、朝廷から昇殿を許される従五位下を賜っていました。 なお、東庄町発行の須賀山城、 沼闕城の両御城印は、日本のみならず海外でご活躍の英国王立美術協 会の名誉会員でもある岩井颯雪様にご揮毫いただきました。
-
62 大多喜城
¥400
SOLD OUT
-
61 網戸城
¥400
⬛︎ 網戸城のご説明 千葉県旭市 網戸城は九十九里平野の微高地に築かれました。 この地は、北方に椿の海、南方は太平洋という水上交通の発達した地域です。 現在の東漸寺周辺一帯が網戸城の城域とされていて、主郭は東漸寺の西方、 「字 「城之内」 付近と考えられています。 主郭と思われる箇所の南方には、 「上宿」 この集落が形成され、そこから城内へ続く道はクランクしていることからも、防衛線 として機能していたことが推察できます。 網戸城の規模や構造などは明らかになっ ていないものの、東漸寺には空堀や土塁などが残っています。 網戸城の築城主や築城年代などは不明ですが、 応永年間(1394年-1418年)頃の築城とも、小田原北条氏の家臣大橋山城守康忠によって築かれたとも伝わります。 天正18年(1590年)の小田原の役の後、 徳川家康の関東移封に伴い、木曽 義昌が下総国阿知戸一万石に入りました。 義昌は、 近隣の福昌寺を仮陣屋とし、 翌年に網戸城を改修整備し、 居城としたとされています。 義昌の死後、 嫡男の 義利が跡を継ぎましたが、 慶長5年(1600年) に義利が叔父を殺害。 それにより、 家康から追放され、 廃藩、 廃城となりその封地は幕府の直轄地となりました。 ⬛︎御城印デザインのご説明 木曽義昌は、 信濃国木曽谷の領主木曽氏の第 19 代当主でした。弘治元 年 (1555年)に武田信玄に降って、その娘を妻としました。 その後、 織田氏、 豊臣氏に属しますが、 小田原の役の際に、自身の病気を理由に嫡男義利を出陣させたことから疑惑を持たれ、 阿知戸に転封されたといわれています。 阿知戸において、 善政を行い、 城下の繁栄に心を砕いた義昌は、文禄 4年(1595年)に没し、 遺言により、 その遺体は椿の海に水葬されました。 義昌は、 木曽義仲 (源義仲) の後裔と伝わっています。 義仲は清和源氏 源為義の孫にあたり、 源頼朝の挙兵に呼応し、 打倒平家の兵を挙げました。 義仲は上洛の際、 倶利伽羅峠の戦いで平家方に大勝し破竹の勢いで進軍し たことから、 朝日の昇る勢いになぞらえて、 「朝日将軍」 と称せられました。 江戸時代に、国学者の野々口隆正が木曽義昌の旧跡を訪れた際、 義仲と その後裔である義昌を懐古して、 「信濃より いづる旭をしたひ 来て 東のくにに跡とどめけむ」と詠んだといい、 この和歌が旭 市の由来となっているといいます。 御城印には、市名の元になった 「朝日」をモチーフにすると ともに、木曽義仲の銅像をモチーフにしました。さらに、 義昌の 肖像画、 兜 (伝木曽義昌兜・東漸寺蔵) をデザインしました。
-
60 鏑木城
¥400
⬛︎ 鏑木城のご説明 千葉県旭市 鏑木城は下総台地の北東端に位置し、南側にはかつて存在した「椿の 「海」が広がっていました。 椿の海は寛文10年(1670年)に干拓が開始され、 「干潟八万石」と呼ばれる水田地帯になりました。 椿の海に面していた南側 には「ネコヤ」と呼ばれる場所があり、さらに「岸湖」という字名が残っています。 そのことからも、鏑木城が椿の海を利用した水上交通の要衝に築かれたこと がよく分かります。 鏑木城は周辺の台地を城域に取り込むような形で築城されており、広義 の城域は東西 1000m、 南北 800mに及ぶことが発掘調査によって判明しま した。 空堀、土塁、 櫓台が良好に残り、周辺には 「北門」 「馬場」 などの 字名も残っています。 「内宿」の字名が残る北側集落は、当時の城下集落 の形態をとどめています。 さらに、主郭からネコヤ地区に下りる大手と思われる 道筋が残っており、 その道に沿って5段の腰曲輪が築かれています。このルー トに対する備えのほどが見て取れます。 鏑木城の詳細は不明ですが、 鏑木氏の居城とされ、 鏑木氏は戦国時 代に主筋の千葉氏を通して小田原北条氏に属しました。 天正18年(1590年) の小田原の役の後、 鏑木城は徳川家康によって接収され、その後、廃城に なりました。 ⬛︎御城印デザインのご説明 椿の海に面し、急崖に囲まれた鏑木城の御城印は、周辺の地形が分か る地図を描きました。 鏑木城は、中世においては東総地方の代表的な城郭 だったと思われます。 諸大名による諸家文書には、「かぶらぎ城 三百騎」 と書かれていて、鏑木城が小田原の役まで機能していたことが分かっています。 鏑木氏の祖は『千葉大系図』によると、 千葉胤定といわれています。 胤 定は千葉常胤の孫、 胤時の子で、 寛喜年間 (1229年-1232年) に鏑木の 地に入り、鏑木胤定を名乗ったと伝わります。 鏑木氏は千 葉城主代々の四天家老にその名があり、常に重要な役割 を果たしていたことが分かります。 御城印は、鏑木氏の祖と 伝わる鏑木胤定の肖像画をモチーフにし、あわせて、 千葉 一族の家紋「九曜」、鏑木氏の家紋「月星」 を配置しました。
-
59 長部城
¥400
⬛︎ 長部 (ながペ) 城のご説明 千葉県旭市 長部城は旭市北部の長部地区西側台地上に築かれました。 現在、 大原幽学記念館が建っている一帯が長部城にあたります。この台地は西方の広大な台地から東に向かって半島状に突き出していて、 西側以外は水田地帯になっており、 長部城の周辺は当時湿地だったと思われます。 「要害」から変化した であろう「龍ヶ谷(ゆうがい)」と呼ばれていた地であることからも、 要害性が高いことが見てとれます。 築城年代などの詳細は不明ですが、 千葉一族である松澤氏が城主だったと伝わっています。 松澤氏 は千葉常胤の子、 国分胤通の一族であると伝わり、 松澤荘を領して「松澤」 を名乗ったとされ、9代に 渡り続いたともいわれています。 落城廃城の時期も不明ですが、天正18年(1590年)に千葉氏が属していた小田原北条氏の小田原 城が陥落すると、それに伴い長部城も城としての役目を終えたと考えられます。 城内には戦国期と思われる空堀、土塁、 櫓台などが残っています。特に、 城内南東に残る櫓台からは、 直下に通る街道や長部城の周辺を見渡すことができます。幕末に改変されているものの、土塁に囲まれた方形の曲輪なども良好に残っています。 ⬛︎御城印デザインのご説明 現在、 長部城は大原幽学記念館が建ち、 史跡公園として管理されています。 幕末の農村指導者として名高い大原幽学は、 尾張藩大道寺家の出身と伝わります。 幽学は諸国を遊 学した後、 天保6年(1835年)以降は長部村名主遠藤氏の依頼を受け、 長部城の跡地を活動の拠点 にしました。幽学は、 「先祖株組合」 と呼ばれる世界初の農業組合をつくった人物です。 さらに、道徳と 経済の調和を基本とした「性学」 という独自の思想のもと、 長部村の農村改革を指導しました。 御城印は、幽学が指導に当たっていた教導所「改心楼」 の絵図をモチーフにしました。また、この改心楼は長部城当時の要害地形が生かされていて、幽学自身も城の遺構である土塁や空堀、 櫓台を好んで利用していたと伝わります。 しかし、人を集めていたこと、 改心楼が城郭のように見えたことなどから、幽学は幕府の嫌疑を受け、 取り調べられ、有罪となりました。 そして、 安政5年(1858年) 3月、 幽学は失意のうちに自害しました。 御城印は長部城の姿を残したまま建てられた改心楼の絵図をモチーフにするとともに、 千葉一族の家紋 「月星」、 そして、 要害性のわかる地図をデザインしました。
-
58 見広城
¥400
⬛︎ 見広城のご説明 千葉県旭市 見広城はかつての椿の海を臨む要害山と呼ばれる段丘上に築かれました。 椿の海の北東に位置し、 半島状の 台地となっています。 椿の海は江戸時代に鉄牛和尚が干拓し、干潟八万石と呼ばれる広大な水田地帯となりました。 築城主、 築城年代などの詳細は不明ですが、今に残る遺構は15世紀以降のものと考えられています。櫓台、 空堀、土塁が良好に残り、 堀添、 桝形、矢通、 新堀込、 井堀など城と関連する地名も残っています。 地元の伝承や、『海上郡誌』 などによると、城主は嶋田三河守を名乗った一族とされ、周辺には 「嶋田」 姓が 多く残ります。 嶋田氏は千葉氏に属していたと考えられ、 見広城の東8kmほどの距離に千葉氏の一族である海上 氏の本城 「中島城 (海上城)」、 見広城の北8kmほどの距離に千葉氏の一族東氏の城 「沼闕城」 があることからも 海上氏と東氏との関係も推察できます。 それぞれが連携して、機能していたと思われます。 見広城の落城については諸説ありますが、永禄年間の正木時忠による下総侵攻の際に、落城したと考えられて います。 永禄3年(1560年) から永禄9年(1566年)にかけて正木軍が下総に侵攻し、 各地で合戦がおきました。 その際に、 見広城は中島城などとともに攻められ落城したという記録が残ります。 旭市野中の長禅寺本尊愛染明王 坐像の胎内墨書銘によると、永禄8年(1565年)、 長禅寺付近一帯で激しい戦闘があり、 寺は猛火で全焼したと 記されていて、この地域で戦闘行為があったことがわかります。 正木氏の下総侵攻についても諸説あり、 見広城が永禄年間以外にも正木氏の侵攻に際し、 戦闘行為に及び、 見広城の南麓には「川岸田」という地名も残り、このあたりが 「港津」であった可能性もあり、 見広城が水運の落城した可能性も指摘されています。 掌握を担う側面もあったと指摘されています。 ⬛︎御城印デザインのご説明 見広城に隣接するように雷神社が鎮座しています。 雷神社の地は小字が「東海道」で、そのことからもこの地 が交通の要衝だったことが推察できます。 雷神社の創建は不明ですが、 延喜式にその名が見え、 奈良時代に はすでに存在していたと思われます。 また、景行天皇が皇子であるヤマトタケルの追慕のために東国に下向し、 椿の海を見下ろすこの地に立ち、 一社を創建したとの伝説も残ります。この伝説からも、この地が古代からの水上交通の要衝であった姿が垣間見 えます。御城印には地形のわかる地図をモチーフにし、 城主と伝わる嶋田三河守の家紋「丸に三割り桜」 と、 主 筋にあたる千葉一族の家紋 「九曜」 をデザインしました。
-
56 金谷城
¥400
⬛︎ 金谷城のご説明 千葉県富津市 金谷城は鋸山から北に伸びる丘陵に築かれました。 眼前には浦賀水道が広がり、さらには上総国と安房国の 境に当たる要衝の地です。 東京湾を挟んで、 三浦半島を指呼の距離に望むことができ、 金谷城は諸勢力の水軍 拠点の海城として使用されていたと推察されます。 築城主や築城年代は不明ですが、 天文年間(1532年~1555年) 初頭の段階では、里見実堯の居城であっ たと考えられています。 史料上の初見は、 天文22年 (1553年) の文書で、それによると里見氏の庇護を受けていた妙本寺 (鋸南町)の住持日我が戦乱から逃れるために、 金谷城に経典などを運び込んで避難するも戦火で焼失したといいます。 里見氏の庇護する妙本寺の住持が金谷城に避難していることから、 金谷城が当時、 里見方の城だったことがわかります。 その後、 金谷城は内房正木氏の管理下に置かれたと考えられます。 正木氏は小田原北条氏に属していた時期 もあり、 その際は金谷城も北条方の城となりました。 詳細は不明ですが、 正木氏が再度里見氏に属すようになると、 金谷城は里見方の城として機能したと思われます。 佐貫城、 造海城、 勝山城が里見氏の拠点として整備されていくと、 金谷城は造海城の支城として連携し存続していったと推測できます。 現在、城址にはスポーツセンターが建ち、 当時の城の姿は失われているものの、 その立地から戦国期には里見氏、 小田原北条氏の紛争の舞台であったことが見て取れます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 金谷城の御城印は、この地域のシンボルである鋸山をモチーフにしました。 金谷城は開発の際に発掘調査が行われ、 たくさんの遺構と遺物が検出されています。 調査によると、中心になる時期は16世紀前半から中頃と考えられていて、礎石や掘立柱建物が数棟見つかっています。 切石を積んだ石積や、 岩盤を削って造られた石塁などが見つかっています。虎口は岩盤を削り精巧に造られ、 検出された柱穴から四脚門 を伴った虎口だともいわれています。それらにより、城主や代官が常駐していた城の可能性も指摘されています。 御城印には検出された石積みや虎口をデザインしました。
-
55 臼井城
¥400
⬛︎ 臼井城のご説明 臼井城は臼井氏により城の基礎が作られたといわれるお城ですが、 その歴史において、戦国期の関東における重要な攻防戦の舞台に複 数回なったお城です。 関東の戦国期の幕開けとなる享徳の乱においては、 文明 11年 (1479年) 武蔵千葉氏に対抗して、 佐倉千葉氏が7か月間籠城した と言われています。この籠城戦は佐倉千葉氏側の敗北に終わりますが、 攻城に際して太田道灌の弟 (甥という説もあり)の太田資忠が討死を 遂げ、現在も土塁上にその墓が残されています。 また、 後世の軍記 物では、永禄9年(1566年) に、 上杉謙信、 里見義弘の連合軍に 攻められます。この時城主は原胤貞でありましたが、城は落城寸前と なります。しかし、胤貞の奮闘、 軍師白井浄三の知謀、 助勢に駆け 付けた北条方の松田康郷らの働きにより、 謙信が大敗する戦いとなり、 後世、無敗とも言われた謙信の最大の汚点の戦いと言われています。 このように戦国期においては重要な攻防戦の舞台となったお城でし たが、小田原の役(1590年) 以降、 徳川家康の関東入封に伴い、 酒井家次が城主となりますが、 近隣の佐倉城の整備が進んだこともあ り、家次の高崎移封に伴い慶長9年(1604年)に廃城となりました。 ⬛︎御城印デザインのご説明 戦国期の城主であった臼井氏、原氏の家紋と徳川家康の関東入 封後に城主となった酒井家の家紋を配するとともに、現在も城址には 郭、 空堀、 土塁などの主に戦国末期の遺構が良好に残っているとこ ろから、その縄張図を組み合わせて、謙信でも落とせなかった城の堅 城さを表現して、御城印のデザインとしたものです。
-
54 造海城
¥400
⬛︎ 造海(つくろうみ) 城ご説明 千葉県富津市 造海城は浦賀水道に面し、 白狐川の河口を見下ろす丘陵の先端に築かれました。 目の前に は東京湾が広がり、 対岸わずか 12km先に三浦半島があり、 戦国期には北条水軍の拠点 であった浦賀城 (横須賀市) を正面に見ることができます。 「造海 (つくろうみ)」 という名は、 中世の郷名に由来し、「つくろふミの城」 として中世文書 等に登場しますが、 「百首の要害」 「百首の湊」 としても度々散見するため、 別名 「百首城」 とも呼ばれています。 築城時期などの詳細は不明ですが、 真里谷武田氏が上総国に勢力を広げていく過程の中 城として取り立てられたと思われます。 その後、里見氏の内紛やそれを取り巻く戦国期の様々 な勢力争いが起きると、 海上の重要拠点として機能し、真里谷武田氏没落の後は里見氏の 城として、 里見家臣である正木氏がこの地に入り、江戸湾を挟んで北条氏と繰り広げた抗争 の舞台となったと考えられます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 江戸湾を臨む好立地に築かれた造海城は、いつの時代も重要な海防拠点でした。 幕末には 異国船への備えのため、 造海城の曲輪などを利用して、 竹ヶ岡砲台が築かれました。 江戸時 代に書かれた砲台の絵図をモチーフに、 要害である造海城の断崖と地形を描きました。 造海城を拠点に、江戸湾沿岸部をめぐる戦国時代の戦いに登場する正木氏 「三つ引両」、 里見氏「二つ引両」 というそれぞれの家紋を配置しました。
-
51 国府台城
¥400
⬛︎ 国府台城のご説明 千葉県いすみ市 国府台城は夷隅川に面した台地に築かれた天然の要害です。 現在、五柱神 社が鎮座する平場が国府台城の主郭と考えられています。 比高15mほどの台 地の付け根を掘り切って独立させており、横堀も確認できます。かつては、 「新 「郭」 「城之内」 という城郭地名も周辺に残っていたといいます。 万喜城土岐氏家臣の三階氏が城主との伝承も残りますが、 築城主、 築城年 代など詳細は不明です。 しかし、国府台城は土岐氏の本城万喜城から南西約 1.5kmに位置していることから、 万喜城の南方を抑えるための支城と考えられ ます。 夷隅川は国府台城の眼下でクランクしていて、その角部は流れが緩やかで 船着き場にも利用できたと思われます。あわせて、国府台城の築かれた台地 が夷隅川本流の渡河地を抑えられる唯一の場所であったとも考えられていま す。 このように、国府台城は大多喜方面からの水運を抑えるとともに、さらに は伊北と伊南を結ぶ街道に隣接し陸上交通を監視する役目も担っていたと考えられ、 万喜土岐氏にとって重要な城郭だったことが推察できます。 また、国府台城から西へ3キロの距離に小田喜正木氏の支城とされる大野城 があり、大野城と国府台城がそれぞれの勢力の境目の城として機能していた と推測されます。 天正初期以降は万喜土岐氏と小田喜正木氏との関係が悪化し、 夷隅川を挟 んで両者が向かい合ったと思われます。そのような状況下で、 万喜土岐氏の 最前線の城が国府台城だった可能性も指摘されていて、詳細は不明ながらも この地域の歴史を物語る鍵になる城ともいえます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 万喜城の支城だったと考えられる国府台城の御城印には、 土岐氏の家紋「水 色桔梗」をデザインしました。 そして、 夷隅川に削られた断崖に築かれた要害 堅固な国府台城をイメージしました。 「国府台」 という地名の由来については諸説ありますが、そのひとつに鸛(こ うのとり)が飛来する地だったという説があります。 御城印には、鶴が夷隅川 に飛来した美しい景観を描きました。
-
50 東金城
¥400
⬛︎ 東金城のご説明 千葉県東金市 東金城は東金市街地を見下ろす標高約70mの丘陵地に築かれた東金酒井氏の本城です。 城域は東西約700m、 南北約500mに及び、 半独立丘陵全体が城郭化され、南側は断崖となっており、 天険の地形を活かした縄張りといえます。 『鎌倉大草紙』によると、 享徳の乱によって起きた千葉氏の内紛をうけて、 美濃から下向した東常縁(とうつねより) が部下の浜春利を東金城に入れたと されますが、 東金城の築城年代など詳細は不明です。 関東に下向後は土気城 (千 葉市緑区)を本拠とし、 東金城にも一族を入れ、 土気酒井氏、 東金酒井氏と してそれぞれ勢力を広げていきました。 土気 東金両酒井氏は、里見氏と北条氏の争いが激化すると両勢力に挟ま れました。 そして、最終的には両氏とも北条氏に属し、 天正18年(1590年)の 小田原の役を迎えました。 東金城は、『関八州諸城覚書(毛利文書)』 などの文献から、小田原の役まで、 東金酒井氏の本城として機能していたことが分かっています。 発掘調査でも 16世紀中葉から後半の遺物が出土しており、 文献との年代の一致が確認され ています。 慶長18年(1613年)には、徳川家康の命により、 鷹狩りを行うための東金御 殿が築かれました。 ⬛︎御城印デザインのご説明 東金城の御城印は東金酒井氏の家紋 「右巴 (右巻の巴)」 をデザインしました。 合わせて、 東金御殿の絵図 (「東金古城之図」) をモチーフにしました。 東金御 殿は東金城の跡地に建てられた鷹狩りのための御殿であるため、 東金上空を 舞う鷹の姿も描きました。 東金御殿の絵図 (「東金古城之図」) は、 天然の要害であった東金城の峻険さ と規模が感じられる絵図になっています。さらには、城下を通る街道や宿も描 かれていて、 東金の地が要衝に当たることが見て取れます。 徳川家康によって築かれた東金御殿でしたが、寛永7年(1630年) の徳川秀 忠の御成りを最後に鷹狩りは行われませんでした。 そして、寛文11年(1671年) になると、御殿は取り壊されました。
-
49 物見台城
¥400
⬛︎ 物見台城のご説明 物見台城は、多古町の南東部、 南中 「鴻巣集落」 周辺の台地に築かれ、 その台地が広範囲にわたり城 郭化されたと考えられます。 物見台城の西側には 「相ノ谷 (あいのやつ)」を挟んで中城があります。 こ の相ノ谷は中村中央の台地に深く切れ込んだ重要な谷戸のため、 物見台城と中城で相ノ谷を挟み、 連 携しながら監視を行っていたと考えられます。 また、 物見台城の東側には「中城坂」 を挟んで土やぐら 城があります。 この坂道は、 中村中央の台地へと通じる重要な街道であったと思われ、 物見台城と土 やぐら城が連携して監視を行っていたと推測できます。 南側を流れる借当川は、中世において多古 匝瑳地域の重要な水上交通路であったと考えられ、この 借当川を直接眼下に監視できる場所に物見台城は位置しています。 これらのことからも、 築城年代や 城主等の詳細は不明ながら、戦国期においては、この物見台城こそが中村中央の台地の南側を防衛・監 視する中心的な城郭であったことが推察されます。 物見台城は、現在山林や畑になっていて、当時の全体像は不明ですが、「諏訪神社」 周辺には土塁、 空堀、 桝形虎口等が残り、台地南西側には土塁、 腰曲輪、 物見台等が残っています。 物見台の周囲には城郭 遺構が良好に残っていて、 特に長さ約100mに及ぶ土塁と帯曲輪は秀逸で、 中世山城の姿を今に伝える 貴重な城郭といえます。 ⬛︎御城印のご説明 物見台城の御城印は土やぐら城を含め、台地全体を利用して築かれたことが分かる縄張図をモチー フにしました。あわせて、 城の名前の由来になった 「物見台」に建つ物見櫓をイメージしました。 この 物見台は土やぐら城(物見台) と連携していたと思われ、この両方の物見台の位置を示すため、該当箇 所を黄色で色付けしました。 そして、 千葉一族ゆかりの地である多古の城郭には千葉氏が深く関わっ ていたと思われるため、千葉氏の家紋「月星」 を描きました。 物見台城がある中村地区には千葉胤貞の 伝承が多く伝わり、胤貞創建の寺院が数多く残っています。 物見台城では、和3年11月6日に日本初の「お城開き」 が行われました。 「お城開き」 では、山城のトップシーズンである秋から冬にかけての訪問者を歓迎すべく、城を整備し、安全祈願を行いました。 全国各地からたくさんのご参加をいただき、お城整備のボランティア活動をしていただきました。 その際に撮った記念写真をこの説明文の背景にデザインしています。今後、多古では毎年「お城開き」を開催していきます。
-
48 多古藩陣屋
¥400
⬛︎ 多古藩陣屋のご説明 千葉県香取郡多古町 多古藩陣屋は、現在の多古第一小学校周辺の小高い場所に築かれました。 多古は、古くから名族千葉一族ゆかりの地で、 享徳の乱に端を発した一族の内紛で千葉氏宗家 が多古で滅ぶなど、 中世を通して下総国内で重要な地でした。 天正18年(1590年)に小田原北条氏が豊臣秀吉に攻められ、 戦国大名として滅亡すると、 徳川家 康が関東に入封しました。 そして、 多古には家康家臣の信濃高遠城主保科正光が入りましたが、 関 ヶ原の戦い (1600年) 後に正光は加増され高遠藩に移ったため、多古藩は一時廃藩となりました。 寛永12年(1635年) に8千石の旗本松平 (久松) 勝義が、 上総国武射郡と下総国香取郡に所 領をもらい、 多古に陣屋を構えます。 これが多古藩陣屋のはじまりです。 そして、 延宝8年(1680年) に 家督を継いだ勝義の九男勝以 (かつゆき)は加増を受け、 1万2千石の大名となり、 多古藩が再び 立藩されました。以後、 久松松平氏が多古藩領主として存続し明治に至ります。 当時、 陣屋の敷地は板塀や石垣で囲われていましたが、 現在は多古第一小学校の校庭となり、 陣屋前面の石垣の一部がわずかに残るだけです。しかしながら、全国的に石垣が築かれた陣屋は珍 しく、このことからも多古藩1万2千石の威光が想像でき、この陣屋が多古藩の政治の中心地であった 往時が偲ばれます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 多古藩陣屋の御城印には昭和8年に描かれた多古町の鳥瞰図をモチーフにし、町の風景を描きま した。あわせて、江戸時代に発行された『下総名勝図絵』 に描かれた多古藩陣屋の表門遠景もデ ザインしました。 久松松平家の家紋 「星梅鉢」、さらに「六つ葵」 を配置しました。 久松松平家は徳川家から葵の紋の使用を許されていました。
-
47 土やぐら城
¥400
⬛︎土やぐら城のご説明 千葉県香取郡多古町 土やぐら城は多古町の南東部、中村地区の借当川流域を臨む台地の先端に築かれました。 こ の台地の中央を走る 「中城坂」を挟んで、 北西300メートルほどの位置には物見台城 (物見台跡) があり、中村中央の台地へと続くこの坂を物見台城と連携し、監視していたと思われます。 土やぐら城の構造は判然としませんが、 物見台城と一体となって機能することで効力を発揮した のでしょう。櫓台、土塁が今も現地に残り、かつては堀がめぐっていたとも伝わります。 この二つの城が築かれた台地の西側は、中村中央の台地に向かって谷 (相ノ谷) が深く切れ 込んでいます。 さらに南から東にかけては借当川とその支流の平野部に接しています。 土やぐら城は、この周辺地域の水運掌握のための監視所的な役割を担わされていたと推察できます。 借当川の上流部は、かつての椿海に通じ多古周辺地域の水運の要衝であり、 香取地方へと繋 がる街道も存在したことから、 借当川流域が水陸交通の要衝だったことがわかります。 治承4 年 (1180年)の源頼朝旗揚げの際、 房総半島から立て直しを図る頼朝側に対し、 平家方として 戦いを挑んだ藤原(千田) 親政の居館も借当川上流にあったとされ、この流域は古代より開けた重要な地域だったのです。 ⬛︎御城印デザインのご説明 多古町には、江戸時代に描かれた土やぐら城の絵図が残っています。 絵図には、 「土やぐら」 という名称の語源となったと思われる櫓台のような高まり (玉屋くら) や土塁が描かれてお り、それらは現存する遺構の形態とほとんど変わっていません。 土やぐら城は小規模な城 郭ながらも、400年以上前の城の姿を今に伝える大変貴重な城郭遺構といえるでしょう。 御城印には、その絵図をデザインするとともに、 多古町中村地区とは特に歴史的かかわ りの深い千葉氏の家紋「月星」 を配置しました。 そして、 土やぐら城は監視所として機能し ていたと考えられることから、櫓をイメージし、表現しました。
-
46 松崎城
¥400
⬛︎ 松崎(まつさき) 城のご説明 千葉県香取郡多古町 松崎城は多古町の東、 常盤地区の東松崎に築かれました。日蓮宗寺院である勝栄山能満寺を中心 とした、舌状台地全体に広がる城です。 松崎城の周囲には栗山川の支流が流れていて、 城があった当時は湿地に囲まれていたと考えられます。 現在、台地の大部分は寺院や人家が広がり、かなり改変されているため城の構造は不明です。しかし、 比高20mほどの台地は切り立ち、周囲には大きな土塁や曲輪、 また虎口と思われる遺構が点在し、 小 丘に築かれた要害であることが見てとれます。 地元では「物見塚」 と呼んでいる高台もあり、見張りのための施設があったことが想像できます。 城域の中心に建つ能満寺は、 寺伝によると天文5年(1536年)に日蓮上人が開いたといいます。日運 上人は正木氏に連なる人物で、 松崎城の歴史は不明ながらも、 千葉一族の領地である多古に、 里見氏、 正木氏の勢力が入り、何らかの関係を持っていた経緯があったことが考えられ、 水陸の要衝であった多 古の中世における重要性が浮かび上がってきます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 日蓮宗勝栄山能満寺は日運寺 (南房総市) と同山一寺で、 日運寺を開いた日蓮上人が隠居寺として多古に創建したといい、江戸時代に日運寺から独立して能満寺となりました。 また、 能満寺は日蓮聖人の 誕生した地に建てられた誕生寺 (鴨川市)の隠居寺としての役目もあり、日蓮宗にとって重要なお寺でした。 御城印には、松崎周辺の地図をデザインするとともに、 松崎城の中心に位置する能満寺の貴重な鐘楼 門(町指定有形文化財)をモチーフにしました。これは山門の上に鐘楼を乗せた珍しい造りで、 天保9年 (1838年) に村人たちによって建立された門です。 松崎城が機能していた当時も能満寺、もしくは能満寺の建つ平場は城の一部として使われていたと思われます。 あわせて、多古を所領としていた千葉氏の家紋 「月星」 と、 能満寺に伝わる正木氏の家紋 「三引き」 を配置しました。
-
45 次浦城
¥400
⬛︎ 次浦城のご説明 千葉県香取郡多古町 次浦城は、栗山川の支流である沼田川沿いの台地上に築かれました。 現在、この台地上には、次浦の集 落が広がっています。 標高は約30mほどで、周囲には自然地形を人工的に加工した形跡が見てとれ、 北側 は切り立った崖となっています。 この台地の北西側一郭には、土塁と空堀で囲まれた方形の区画が残っています。 この辺りは地名 (字名) を「城山」といい主郭と思われますが、 城域全体が集落と重なっているため、 その他の城郭構造は不明です。 しかし、周辺には城郭に関連する 「馬場小屋」 「内小屋」 「土橋」 「馬場道」 などの字名が残り当時を偲ばせます。 築城年代や城主は不明ですが、 次浦八郎常盛の居城だったとも伝わり、この人物は千葉常兼の弟、 粟 飯原五郎家常の4男であることから、 千葉一族との関連が指摘されます。 多古は「千田荘」とよばれる荘園で、 千葉一族の支配地でした。 千葉宗家当主の胤貞は 「千田殿」 と呼 ばれていて、 千葉宗家と多古が密接に関係することがわかっています。 鎌倉幕府滅亡後に多古の土橋城 周辺で起きた 「土橋合戦」 には次浦氏も関わっていて、この次浦城を拠点に戦いに臨んだと思われます。 また、次浦氏は土橋城下にある東禅寺の大旦那だったことも金沢文庫古文書からわかっています。 その後もたびたび多古が戦いの場になると、次浦城も城郭として拡張整備されていったと考えられます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 次浦城から800mほど西方に次浦八郎常盛の館と伝わる居館跡があります。 このことから次浦の台地周 辺一帯を次浦氏が治めていたものと推測できます。 その居館跡近くの山中に 「矢指塚」 といわれる塚があります。 これは、後三年の役で源義家に従い出陣 した次浦常盛が戦いに勝利し戻った際に、戦場で使わず残った矢を記念に埋めた、もしくは前九年の役 の凱旋の際に、義家が上総の海岸に100本の矢を1里ごとに突き刺しながら戻ってくる途中、この次浦に 最後の1本を埋めた記念の塚とも伝わります。 次浦の台地に城館が築かれたことから、台地の地図をモチーフにし、 千葉一族の家紋 「九曜紋」 を配置 しました。 そして、矢指の伝説にちなみ 「矢」をデザインしました。
-
44 久保城
¥400
⬛︎ 久保城のご説明 千葉県香取郡多古町 久保城は、千葉氏宗家当主千葉胤貞 (1288年-1336年) が居館として築いたものと伝わります。 多古の中心と もいえる中村に創建された古刹日本寺の古文書にも、胤貞の居館は 「久保 (窪)」にあったと記されています。 久保城は土地の伝承と古文書からも、「千田殿」 と呼ばれていた胤貞の存在を裏付ける重要な城といえます。 同じく中村の分城や中城は、 久保城を守る防衛拠点として胤貞が築いたとされています。 平安末期から、多古は「千田荘」 という荘園の中心地で千葉氏の領地でした。 千葉氏は源頼朝に助力し、鎌倉 幕府の成立に大きく貢献、そして勢力を拡大していきました。 しかし、鎌倉幕府が滅亡すると、 千葉一族も足利尊氏派と後醍醐天皇派に別れて戦いました。胤貞は尊氏派 につき、後醍醐天皇派についた従弟の貞胤と争いました。 そのような中で多古も戦の舞台となり、 多くの城が築かれました。 戦国期に入り、また戦乱の舞台となった多古の城は整備拡張されて使われていたと思われます。 久保城周辺には土塁や空堀などの遺構が残っています。 ⬛︎御城印デザインのご説明 久保城は、中世には湖沼等低湿地帯が広がっていた栗山川流域を見下ろす台地の西端に築かれました。 久保城の直下には、 栗山川から日本寺がある中村の台地に向かって谷津が入り込みます。 久保城は、まさ 中村の台地の入口に当たる要衝地ともいえます。 現在の久保集落のある台地全体を取り込むように館を 構えたと思われます。 御城印には、久保城周辺の地図をデザインし、千葉氏の家紋 「月星」 を配置しました。 また、千葉氏は承久の乱の功で肥前国小城郡 (佐賀県小城市) を領地としていました。 胤貞の祖父頼胤、 父宗胤が元寇に際し九州に異国警護番として赴くと、胤貞の叔父である胤宗とその子貞胤が本領の下総国 の実力者となったため、 胤貞は本領の千田荘と小城の統治に腐心しました。 千田荘では中村を中心とし、自 らが帰依していた日蓮宗寺院を厚く保護しました。 そして、領国経営を始めた小城では、 東国文化を持ち込み、 九州千葉氏の祖となりました。 小城には九 千葉氏ゆかりの城跡や寺院などが今でも残り、その歴史を今に伝えてくれます。 御城印には、その小城 にある九州千葉氏の菩提寺「松尾山光勝寺」に残る胤貞座像を描きました。
-
43 並木城
¥400
⬛︎ 並木城のご説明 並木城は、多古町南並木地区の台地の南 端に占地する戦国・中世城郭であり、記録 等によれば 1330年代から戦国期末まで城 郭として利用されていました。 現在城跡には、南側に土塁と空堀で囲まれ た部分があり、主郭と考えられています。 主郭の北側の折れを伴った土塁と空堀の二 重構造 南東側の巨大な二重の枡形虎口、 南側の帯曲輪等の遺構は特に秀逸であり、 多古町内にある戦国・中世城郭の中では、 もっとも保存状態の良い城郭と考えられています。 ⬛︎ご城印デザインのご説明 1330年代に生じた北朝方と南朝方の争いの 際、 並木城直下の「並木のふけ」 (現在の多 古光湿原辺り、「ふけ」とは湿原・沼沢地をあ らわす)において、「ふないくさ」が行われたと考 えられる記録が残っています (「悟円書状」)。 並木城の大きな役割として、 栗山川、 借当川 等の水運の要衝にかかわる権利確保があり、そのための拠点城として、当時より並木城は機能していたのではないかと考えられます。 御城印においては、 並木城の復元鳥瞰図をモ チーフとし、 水運、 水辺をイメージする青色を 主体としてデザインを行うとともに、 1330年代、 北朝方として並木城と深い関係を有したと思わ れる千葉胤貞の家紋を配し構成しています。