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60 鏑木城

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⬛︎ 鏑木城のご説明 千葉県旭市
鏑木城は下総台地の北東端に位置し、南側にはかつて存在した「椿の 「海」が広がっていました。 椿の海は寛文10年(1670年)に干拓が開始され、 「干潟八万石」と呼ばれる水田地帯になりました。 椿の海に面していた南側 には「ネコヤ」と呼ばれる場所があり、さらに「岸湖」という字名が残っています。 そのことからも、鏑木城が椿の海を利用した水上交通の要衝に築かれたこと がよく分かります。

鏑木城は周辺の台地を城域に取り込むような形で築城されており、広義 の城域は東西 1000m、 南北 800mに及ぶことが発掘調査によって判明しま した。 空堀、土塁、 櫓台が良好に残り、周辺には 「北門」 「馬場」 などの 字名も残っています。 「内宿」の字名が残る北側集落は、当時の城下集落 の形態をとどめています。 さらに、主郭からネコヤ地区に下りる大手と思われる 道筋が残っており、 その道に沿って5段の腰曲輪が築かれています。このルー トに対する備えのほどが見て取れます。

鏑木城の詳細は不明ですが、 鏑木氏の居城とされ、 鏑木氏は戦国時 代に主筋の千葉氏を通して小田原北条氏に属しました。 天正18年(1590年) の小田原の役の後、 鏑木城は徳川家康によって接収され、その後、廃城に なりました。

⬛︎御城印デザインのご説明
椿の海に面し、急崖に囲まれた鏑木城の御城印は、周辺の地形が分か る地図を描きました。 鏑木城は、中世においては東総地方の代表的な城郭 だったと思われます。 諸大名による諸家文書には、「かぶらぎ城 三百騎」 と書かれていて、鏑木城が小田原の役まで機能していたことが分かっています。

鏑木氏の祖は『千葉大系図』によると、 千葉胤定といわれています。 胤 定は千葉常胤の孫、 胤時の子で、 寛喜年間 (1229年-1232年) に鏑木の 地に入り、鏑木胤定を名乗ったと伝わります。 鏑木氏は千 葉城主代々の四天家老にその名があり、常に重要な役割 を果たしていたことが分かります。 御城印は、鏑木氏の祖と 伝わる鏑木胤定の肖像画をモチーフにし、あわせて、 千葉 一族の家紋「九曜」、鏑木氏の家紋「月星」 を配置しました。

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