-
水辺の城 第7号
¥1,000
-
105 大寺城
¥400
⬛︎ 大寺城のご説明 千葉県匝瑳市 大寺城は江戸時代初期まで存在した椿の海の西側の台地上に築かれました。大寺城は、現 在の日蓮宗長福寺一帯が城域と考えられています。大寺から台地を下れば、中世の水上交通 の要所である借当川沿いにあたり、また大寺はこの地域の街道が集まる要所であることから、 水陸両方の交通が発達していた場所だと考えられます。大寺の中心を通る下総道は、中世に おいて重要な街道であり、戦国期には軍用道路としても使われたと考えられています。 弘治三年(1557年)、森山城の城主であった千葉胤富が千葉家当主となり本佐倉城に移り ます。胤富は本佐倉城に入ってからも森山城を重要視し、戦争の際には「森山衆」として森 山城の兵力を主力としました。森山城と本佐倉城への行き来に、この大寺を通る下総道が使 われたと思われます。まさに、戦国期に軍事用道路であった下総道は最重要ルートのひとつ であり、このような理由から街道の整備が進んだと考えられます。 また文禄4年(1595年)には、江戸城に岡飯田 (森山)から蜜柑が伝馬によって運ばれた ことがわかっています。経路は岡飯田、府馬、鏑木、大寺というルートを通り、江戸に向かっ たことが分かっており、このことから大寺が江戸ともつながる重要な街道における要所的宿 場であったことがわかります。 大寺には現在も、下総道に沿うように「横宿」 「上宿」などの宿地名が残るとともに、中世 期に構築されたと思われる鍵型の折れ筋も明瞭に残っています。まさに大寺は中世期の街道 と城郭との関係を見て取ることができる貴重な場所であり、大寺城はこのような重要な街道 を押さえる役目を担っていたと考えられます。 現在の長福寺の西側には「要害」の地名が残ることから、長福寺から西にかけて、城域が 広がっていたと推察され、長福寺の寺域の中にも一部土塁が残るとともに、西側の台地には 櫓台や堀切状の窪みが確認できます。 大寺城の詳細は不明ですが、この地域は匝瑳郡「北条庄」にあたり、北条庄の地頭は千葉 一族飯高氏でした。そのため、ここ大寺も飯高氏に繋がる勢力がいたと考えられます。また、 大寺城の西約3kmの距離には、飯高城があります。飯高城は戦国時代に平山氏の居城でした。 このことから、大寺城も飯高城と連携して機能する戦国時代の城だった可能性もあります。 ⬛︎御城印のご説明 大寺城が築かれた大寺には、「大寺廃寺」と呼ばれる古代寺院がかつてあり、その大寺廃 寺を前身とするのが現在の龍尾寺です。この寺が地名の由来になっています。このことから、 大寺地区が古代から発展した地であり、地域の中でも重要な場所だったことがわかります。 そのため、中世には城が築かれました。大寺は古代のみならず、時代を通して要衝地であり 続けました。 江戸時代にも、大寺には幹線道路が通り、いくつもの道が交差する要所だった大寺城の御 城印には、元和期(1615年~1624年) 以前に描かれたと推定される「下総之国絵図」をデザ インしました。この図により、大寺の重要性がよく分かります。 そして、大寺を通り、輸送されていた蜜柑をデザインしました。この 当時の蜜柑は、今と違って小ぶりで酸味が強かったようですが、甘い物 が貴重な当時においては高級品であり、日もちがしたため、大名間での 贈答品として多用されたようです。下総は当時日本有数の蜜柑の産地で あり、その輸送を担ったのが大寺を通る街道であり、まさに蜜柑は大寺 の重要性を物語る象徴的アイテムといえます。千葉一族の九曜紋も、蜜 柑カラーでデザインしました。
-
里見氏研究「第3号」
¥1,100
-
104 下富谷城
¥400
⬛︎ 下富谷城のご説明 千葉県匝瑳市 下富谷城は、九十九里浜から約6km内陸に築かれました。下富谷城の東約1km には横須賀城、南東約5kmには野手城、また北約3kmには八日市場城があります。 九十九里浜一帯は約6000年前の縄文海進が終わると、海岸線が徐々に後退していっ たため、太平洋に面して数列の浜堤が形成されました。浜堤と浜堤の間は低地のため に湿地化し、沼沢地や潟湖となりました。下富谷城は、八日市場城の築かれた台地か ら数えると、3列目にあたる浜堤の上に築かれています。周辺が低湿地化した浜堤といっ た地形的特色を活かした防御性の高い城といえます。 また、周辺の沼沢地は要害性が優れただけではなく、水路としても使われました。八 日市場城や近隣の城との間で、舟運で連携が取れ、輸送が行えるという利便性もあっ たものと推察できます。 下富谷城の特徴として、集落全体を取り囲む土塁と堀があげられます。これは、環 濠集落としての優れた防御性、さらに堀には水を引き込んで水堀にしているのが見て取 れます。現在も集落の北側には長さ約600m、幅約4mの水堀及び水堀跡、それに伴 う土塁が残ります。 下富谷城の詳細は不明なものの、八日市場城主押田氏の後裔に伝わる『押田家譜 注記』には、「下総国八日市場同州横須賀城主」という肩書きが付けられていることな どから、横須賀城は押田氏の城だったと考えられています。そのため、横須賀城と隣接 する下富谷城も押田氏に関連する城だったと思われます。 戦国時代のこの地域は、香取の海、椿の海の制海権の掌握を狙う里見氏と、その 配下の正木氏の侵攻を頻繁に受けるなど、緊迫した状況にありました。そのため、横須 賀城とともに、有事の際には押田氏の本城八日市場城を守るための最前線の役目を 担ったと考えられます。 ⬛︎ 御城印のご説明 下富谷は、平安時代には熊野神社神領となっていたとされ、それを証拠づけるように 現在でも下富谷集落の中心に熊野神社が鎮座しています。下富谷集落は、神領管理 のために下向してきた熊野神社の神官たちの居住地として始まったのではないかともい われています。御城印には熊野神社の象徴である「八咫烏」を描きました。 下富谷集落は、もともと「ジョウ」と呼ばれていたといいます。戦国期に作成された『下 総之国図」には、「チヤウ(ジョウ)」 と記載されています。「下富谷」という名称への 変更は、天正18年(1590年)の小田原の役後に為政者が変わったことによって行わ れたとされています。しかしながら、地元では現在でも、多くの住 民が下富谷集落のことを「ジョウ」と呼んでいます。おそらく、「ジョウ」 は「城(ジョウ)」であり、この地域に城が築かれていたと伝わる貴重な伝承といえます。御城印には「下総之国図」をデザインしました。 あわせて、下富谷城周辺地域を治めていた八日市場城主押田氏 の家紋「九曜」をモチーフにしました。
-
103 横須賀城
¥400
⬛︎ 横須賀城のご説明 千葉県匝瑳市 横須賀城は、九十九里浜から約6km内陸に入った横須賀に築かれました。 横須賀城の南東約4kmには野手城、また北約3kmには八日市場城があります。 九十九里浜一帯は約6000年前の縄文海進が終わると、海岸線が徐々に後 退していったため、太平洋に面して数列の浜堤が形成されました。浜堤と浜 堤の間は低地のために湿地化し、沼沢地や潟湖となりました。横須賀城は、 八日市場城の築かれた台地から数えると、第三列目にあたる浜堤の上に築か れています。周辺が低湿地化した浜堤といった地形的特色を活かした防御性 の高い城といえます。 また、周辺の沼沢地は要害性が優れただけではなく、水路としても使われま した。八日市場城や近隣の城との間で、舟運で連携が取れ、輸送が行えると いう利便性もあったものと推察できます。 横須賀城の詳細は不明なものの、八日市場城主押田氏の後裔に伝わる『押 田家譜注記』には、「下総国八日市場同州横須賀城主」という肩書きが付け られていることなどから、横須賀城は押田氏の城だったと考えられています。 天文4年(1535年)、古河公方足利晴氏と小弓公方足利義明の対立に端を 発した「野手合戦」が起きました。小弓公方方の八日市場城主押田氏が古 河公方についた野手氏の居城野手城に攻め寄せ、野手氏当主義長と子義治ら が討ち死にしたとされます。この戦いの際に、横須賀城がどのような状況だっ たかは不明ですが、戦国時代にこの地域が緊迫した状況に包まれていたこと が想像できます。野手合戦後、野手城は押田氏の城となり、八日市場城周 辺は押田氏によって掌握されました。横須賀城は八日市場城、野手城と連携 して機能していたと考えられます。 城跡は現在集落になっていて、遺構等は明確に残っていないものの、「戸 城(外城)」の字名が残り、地元には「向城」 「コヅメ (小詰か?)」という 城郭を連想させる呼び名も残ります。また、西側の長徳寺周辺には土手や水路が残っていて、当時の堀、土塁だと考えられています。 ⬛︎ 御城印のご説明 城郭遺構があまり残っていない横須賀城ですが、江戸時代に描かれた絵図面 には、「コヅメ」を取り囲むように堀が巡らされている様子が描 かれています。また、長徳寺の西側には「鐘ヶ淵」と呼ばれる 沼があり、湿地帯に囲まれた微高地の様子が見て取れます。 御城印はその絵図面をモチーフにするとともに、周囲の関連 する城である八日市場城、野手城との位置関係が分かる地図 をデザインしました。あわせて、押田氏の家紋「九曜」をモチー フにしました。
-
102 江ヶ崎城
¥400
◼️ 江ヶ崎城のご説明 千葉県旭市 江ヶ崎城はかつて存在した椿海 (つばきのうみ)の南端に位置し、東の 低地から西へ突き出した半島状の微高地上築かれました。江ヶ崎城の北方、 南方、西方は椿海に面していることから、水上交通と密接に関わる城であっ たことが推察されます。 また、当時、椿海から太平洋に流れ出していた仁玉(にったま) 川にも面 していることから、椿海と太平洋を結ぶ水の道を押さえる役目も担っていた と考えられます。 椿海は江戸時代初期に干拓されるまで存在した巨大な湖で、現在の東庄 町、旭市、匝瑳市にまたがって広がり、その大きさは東西 12km、南北4 kmにおよびました。古代から中世において、重要な水運を担う水上交通の 大動脈でした。そのため、椿海を囲むようにたくさんの城郭が築かれました。 江ヶ崎城の北西 700mには、入江を挟んで仲島城があり、両城で連動し て椿海と仁玉川の水運を掌握していたと思われます。 江ヶ崎城の築城等に関する詳細は不明で、伝承も残っていません。しかし、 現在、江ヶ崎城の主郭と考える場所には子安神社が祀られていて、神社の境 内の北側、東側に水堀、西側は空堀になっています。さらに、水堀の内側に は土塁が残るとともに、周辺の民家の敷地等にも土塁が一部残存しています。 江ヶ崎城の周辺には、「鎮守郭」「東郭」 「西郭」などの小字名が残り、また、 古くは「馬場内」 「花だて」 「中屋敷」などの地名も存在していたといい、 それらの地名が城の存在を示しているといえます。 また、子安神社は、明治元年まで妙見社であり、妙見社は千葉氏の信仰 を集めた神社であることから、江ヶ崎城は千葉一族に関係する城だったことが 推察されます。仲島城は千葉一族である大須賀氏、加瀬氏に関係する城であ ることから、江ヶ崎城も仲島城、ひいては千葉一族との関係性が偲ばれます。 ◼️御城印のご説明 椿海と太平洋を結ぶ水運の要衝地に築かれた江ヶ崎城の御城印には、地 形の分かる地図を配置しました。あわせて、連携して機能し ていたであろう仲島城の場所も地図上に図示しました。さら に、水上交通の発達した江ヶ崎城をイメージし、行き交う舟 を描きました。 江ヶ崎城は千葉一族と関係する城と思われるため、千葉 一族の家紋「九曜」をデザインしました。
-
101 宮和田城
¥400
◼️ 宮和田城のご説明 千葉県匝瑳市 宮和田城は借当川の南側に位置し、北に向かって大きく突き出した台地上に築かれ ました。この台地の北側突端には大浦城、西側突端には長岡城が築かれています。 宮和田城の築城等に関する詳細は不明ですが、伝承によれば千葉氏の系統で 椎名一族、宮和田氏の居城とされています。大浦城の大浦氏、長岡城の長岡氏は宮和 田氏とともに椎名一族の系統であると考えられていて、その立地から宮和田城、大浦 城、長岡城が連携して機能していたことが推察されます。 借当川は中世においては「境川」と呼ばれ、北条庄と南条庄の境界河川となっていました。宮和田城を含む借当川より南側は、当時は南条庄に属し、椎名氏が領していました。 一方、借当川より北側の北条庄は飯高一族が領していて、南条庄の椎名一族との間 でたびたび争いが起きました。それにより、緊迫したこの地域には多くの城が築かれた と考えられます。 宮和田城は、現在集会所が建っている区画が主郭だったと考えられていて、いまも周 囲には土塁が残ります。この主郭を中心に東西に曲輪が展開します。南側には街道が 通り、かつての城下の道筋と考えられています。その街道を挟んで西側には瘡神社が 建っていて、境内の西端には物見台と伝わる高まりが残っています。このように宮和田 城は、城下の街道を挟み込むような構造をしていることから、松山方面と飯高方面を結 ぶ街道の押さえの役目を担っていたと考えられます。宮和田城は借当川の水運のみなら ず、水陸両方の交通の要衝地に築かれ、大浦城や長岡城と連携して機能していた地域 の重要な城であることが見て取れます。 ◼️御城印デザインのご説明 千葉一族椎名氏の系統である宮和田氏の居城と推察される宮和田城の御城印に は、千葉一族の家紋 「九曜」 をデザインしました。 また、水陸両方の要衝地に築かれた宮和田城の御城印には地形の分かる地図を配 置しました。あわせて、連携して機能していたであろう大浦城、長岡城の場所も地図 上に図示しました。 借当川は中世において、海上航海の難所である犬吠埼を避けて東北方面に向かう ための内陸太平洋航路として利用された水運の大動脈と考えられています。ルートとし ては、九十九里浜に結節する栗山川河口から、借当川を経て、椿海、香取の海、北浦、 涸沼、そして太平洋へ出ると想定されています。これらのことから、 宮和田城も水上交通の利便性を見込んで築かれたと考えられるた め、御城印には借当川と行き交う舟のイメージを描きました。 なお、かつては借当川に繋がる沼が宮和田城の北側に入り込ん でいたと考えられ、北側に残る物見台跡は船の行き来を監視してい たとも推察できます。
-
100 国府台城
¥400
◾️ 国府台城のご説明 千葉県市川市 国府台城は、旧利根川水系である太日川(現在の江戸川)沿いの標高25mほどの断崖上に築かれました。現在は、里見公園として整備され、堀切、空堀跡のなごりと見られる切通し状の坂道などが残っています。公園整備や戦時中の軍隊利用によって、当時の姿からかなり改変されましたが、土塁や櫓台と思われる遺構が確認できます。国府台は、眼下に渡河点があったため、度重なる合戦の舞台となりました。 文明10年(1478年)、扇谷上杉氏の家宰である太田道灌が長尾景春に与 した千葉孝胤(のりたね)を攻めるため、境根原合戦が起きました。その際 に道灌が陣城を国府台に構えたと伝わり、この戦いで敗れた孝胤は、臼井 城(佐倉市) に退却を余儀なくされます。孝胤追撃のため、文明11年(1479 年)、道灌の弟(一説には甥)の資忠が国府台に城を築いたとされ、この時 にはじめて国府台城が本格的に築城されたと考えられています。 その後は天文7年(1538年)、小弓公方足利義明が陣を構え北条氏綱と 戦った第一次国府台合戦や、永禄7年(1564年)に北条氏と里見氏が戦った 第二次国府台合戦などが繰り広げられ、国府台は度重なる戦いの舞台と なりました。その後の城主・城代は不明ですが、国府台城は戦いの度に堅 固な城郭として整備されていったと思われます。 ◾️御城印デザインのご説明 天文年間になると、里見氏や真里谷(まりやつ) 武田氏といった大名たちが、一族の中で家督争いによる分裂を引き起こします。それぞれの支持をめぐり、各勢力間で抗争が起きました。これらは北条氏、里見氏、小弓公方、古河公方らを巻き込んでの対立へと発展し、天文7年 (1538年)、国府台にて小弓公方足利義明と北条氏綱の間で戦いが起きました。これが、世にいう第一次国府台合戦です。結果は義明の甥である古河公方晴氏の意を受けた北条氏綱が勝利、義明は壮絶な討ち死にを遂げました。 武勇に優れた義明は、自ら陣頭に立ち、指揮をとったと 伝わっています。御城印は、その義明の雄姿を描いた絵を モチーフにしました。さらに、第一次国府台合戦で戦った 足利氏と北条氏の家紋を上部に配置し、第二次国府台合 戦で戦った里見氏と北条氏の家紋を下部に配置し、動乱 の戦国時代をイメージしました。
-
99 坂田城
¥400
◾️ 坂田城のご説明 千葉県山武郡横芝光町 坂田城は九十九里平野に突出した標高30mの台地上に築かれ ました。古代から水運の要であった栗山川の作り出した低湿地 や点在する沼地に囲まれた要害の地です。 坂田城は、はじめ千葉庶流の三谷氏によって築かれた後、 16世紀半ばに小田原北条氏の息のかかった芝山大台城主井田氏 に押領され、改修整備されました。これは南の里見氏、北の佐 竹氏に対し、小田原北条氏の戦略的な要地を押さえる目的が あったものと思われ、配下となった千葉氏を介して井田氏を配 置したと推定されます。 小田原北条氏支配となった坂田城は、天正8 (1590)年、豊臣 秀吉の小田原攻めにあって落城しました。その後、井田氏は北 条氏を離れて徳川家康の5男武田信吉に仕え、その移封に従っ て水戸へと移り、水戸徳川家の家臣となりました。 ◾️御城印デザインのご説明 周囲を湿地や沼地に囲まれた堅固な要害とした坂田城の御城 印には、今でも城の直下にある坂田池と城山をデザインしました。 大規模な直線連郭式の城郭遺構が台地上に残るのが遠目に見て も想像できる特徴的な地形です。 坂田城の大部分は、現在、畑等になっているものの、16世紀 後半の遺構と思われるダイナミックな空堀、土塁などが良好に残っ ています。横矢掛を要所に構えたり、大手口は食い違い木戸口 とする戦国期の城の姿を見ることができ、特に主 郭へのアプローチは、物見台を直角に遠回りする 造りとなっています。坂田城は千葉県下でも代表的 な城郭といえることから、御城印には良好に戦国期 の遺構を残す坂田城の縄張図をモチーフにしました。
-
98 仲島城
¥400
◾️ 仲島城のご説明 千葉県旭市 仲島城は、かつて存在した椿海(つばきのうみ)の南側の台地に築かれました。椿海 を水堀代わりとした要害であったと考えられます。かつて、この地域は「大田村」と呼ば れており、『旭市史』には、椿海に面した湊町だったと書かれています。 椿海は江戸時代初期に干拓されるまで存在した巨大な湖で、現在の東庄町、旭市、 匝瑳市にまたがって広がり、その大きさは東西 12km、南北4kmにおよびました。古 代から中世において、重要な水運を担う水上交通の大動脈でした。そのため、椿海を 囲むようにたくさんの城郭が築かれました。 現在、仲島城の周りは開発され住宅地となっていますが、浅間神社を中心に周囲に は平場が残っていて、腰曲輪や土塁などの城郭遺構が確認できます。 仲島城の築城などに関する詳細は不明ながらも、正中元年(1324年)に千葉一族の 大須賀尾張守が築城したとされ、大須賀八左衛門が城主となったと伝わっています。 戦国時代、仲島城の大須賀氏は福岡城 (匝瑳市) の城主押田氏と連合していた時 期があり、東総地域における反小田原北条氏の中核となっていたようです。天文16年 (1547年)、大須賀氏は、押田氏とともに仲島城を拠点に北条方の勢力と戦ったと伝わ り、「大田合戦」と呼ばれる激しい戦いが行われたとされます。仲島城では、500名以 上の戦死者が出たと伝わります。 さらに、大田合戦の3日後には、八日市場城にて「八日市場合戦」が行われ、この戦 いでも 800名近くの戦死者が出たと伝わっています。これらの戦いを経て、東総地域 の反小田原北条勢力は、ついに北条氏の勢力下に入ったと考えられています。 永禄元年(1558年)には、加瀬肥後守が城主だったと伝わり、大須賀氏に代わって 加瀬氏が仲島城に入ったと考えられています。その後、永禄8年(1565年) に里見方の 正木時忠が府馬方面から来襲。その後も度々、正木氏による攻撃を受けますが、加瀬 氏はこれを撃退したと伝わります。 豊臣秀吉による小田原の役 (1590年)の際に仲島城は降伏開城し、その後、廃城と なりました。 ◾️ 御城印デザインのご説明 千葉一族大須賀氏が築城した仲島城の御城印には、千葉一族の家紋「九曜」をデザインしました。 また、低い台地でありながら、椿海を水堀代わりに使用した要害であった仲島城Mの地形が分かる地図をモチーフにしました。中世期においては、椿海沿岸にはたくさんの城が築かれており、仲島城もそれらの城と 水上交通を介して連携していたと思われ、内陸部の河川湖沼の水 運や湊の掌握を目的とする水城 (みずじろ)の機能を有していたと 推察されます。 何度も合戦があったとされる伝承を持つ仲島城の御城印には、 舟で攻め寄せる戦いの場面をイメージとして描きました。
-
97 椿城
¥400
◼️ 椿城のご説明 千葉県匝瑳市 椿城は、かつて存在した椿海(つばきのうみ)の南西隅に張り出す台地に築かれた城です。 椿海は江戸時代初期に干拓されるまで存在した巨大な湖で、現在の東庄町、旭市、匝瑳市にまたがって広がり、その大きさは東西12km、南北4kmにおよびました。 古代から中世において、重要な水運を担う水上交通の大動脈でした。 そのため、椿海を囲むようにたくさんの城郭が築かれました。 椿城は、八重崎集落背後の台地に築かれ、その南側を街道が通っていること から水陸交通の要衝地であったことが分かります。 椿城については文献には乏しいものの、 大正8年に発刊された 「千葉縣誌』 にその名が見え、「字八幡台、 浅間台、 蔵之内に跨がる東西七十間、 南北二百間 ばかり」と記されています。 現在、城跡は広大な畑になっていて、かつての城域 の大きさを偲べるものの、遺構としてはわずかな土塁などを残すのみです。 築城年代や築城主に関する詳細は不明ですが、 「千葉縣誌』 には海保三吉 (かいほみつよし)の居城と書かれています。 しかし、海保氏と椿城には全く関連 性が見当たらず、むしろ、 椿城の北側に位置する飯塚城を居城とした千葉一族 飯塚氏と椿城の関連性が指摘されています。 椿城の麓には飯塚氏ゆかりの常 福寺があり、さらに椿城と道を挟んで東北にある 「星神社」は、 千葉一族の妙見 信仰を祀るものであることからも、 千葉一族飯塚氏と椿城の関連性が見て取れ ます。 また、星神社が鎮座する小丘には物見台のような高まりや、 堀切などが残 ることから、星神社の一帯が椿城と連携して機能していたと推察できます。 ◼️御城印デザインのご説明 椿城周辺の常福寺や星神社が千葉一族と関連があると思われることから、 御城印には千葉一族の家紋 「九曜」 をデザインしました。 また 椿海という中世における重要な水上交通の要所を臨む場所に位置す る椿城の御城印には、地形の分かる地図をモチーフにしました。あわせて、 椿海方面から見た椿城の城山山容と、かつて行き交っていたであろう舟をデ ザインしました。 なお、 椿城の城名としては、 「椿海城」 と表記している場 合もありますが、地元では台地の地名が 「椿」 ということから、 古くからこの城は 「椿城」 と呼ばれていました。 そのため、 当御城印でも 「椿城」 と表記しました。
-
96 天神山城
¥400
◼️ 天神山城のご説明 千葉県富津市 天神山城は上総湊へと注ぎ込む湊川の河口を見下ろす丘陵に築れました。 山頂からは、 湊川と東京湾を臨むことができ、 水上交通の要所であったことが分 かります。 丘陵部は断崖絶壁の様相を呈し、特に西と東斜面は急峻で自然の要害となって います。 主郭北側には大きな堀切が施され、掘り切られた先には出曲輪のような空 間が設けられています。 この曲輪は主郭に集まる尾根の結節箇所にあたるため、主 郭と接する東側の堀切以外にも、 南側と西側が掘り切られ、尾根を分断していま す。小さな空間ながらも、防衛上重要な位置付けであったことが見て取れます。 城山の北麓は 「天神台」と呼ばれ、天神社が祀られています。 天神台と呼ばれる エリアは開発され、住宅地になっているため旧状は不明ながらも、 平場が階段状に 形成されていたと思われる痕跡が残っています。 また、天神台の西側には「根古屋」 の地名が残っています。 このことから、 天神台周辺が城主の居館や家臣の屋敷だっ た可能性が指摘されています。 天神山城の築城などに関する詳細は不明ですが、 真里谷武田氏が文明年間 (1469年-1487年)に築き、 その後、 小田原北条氏配下の戸崎玄蕃頭勝久が天神 山城を居城としていたとも伝わっています。 弘治3年(1557年) に、 北条氏が「天神山」に兵糧を運び込む指示を出している 史料が残っており、この「天神山」 が天神山城に該当すると考えられています。 この ときには内房正木氏の正木兵部大輔が天神山城を管理していたと思われ、北条方 として在城していたようです。 天神山城は史料に乏しいものの、緊迫した状況下で真里谷武田氏、 里見氏、正 木氏、 北条氏などの勢力の移り変わりが推察され、 小田原の役の後は廃城となった と考えられます。 ◼️御城印デザインのご説明 真里谷武田氏、 里見氏、 正木氏、北条氏の勢力下に置かれていた天神山城の 御城印には、それぞれの家紋、武田氏の「四ツ菱」 里見氏の 「二つ引き」、 正木氏の「三つ引き」、北条氏の「三つ鱗」をデザインしました。 天神山城は湊と河川交通を管理する役目を持っていたと思われることから、地形の分かる地図をモチーフにしました。 また、弘治3年 (1557年) に北条氏から兵糧が運び込まれ た史料が残っていることに因み、兵糧を積んだ舟が天神山城に 向かうイメージを図柄化しました。
-
95 岩ヶ崎城
¥400
◼️ 岩ヶ崎城のご説明 千葉県香取市 岩ヶ崎城は、かつての内海 「香取の海 (現利根川)」に向かって伸びる台地の北 端に築かれました。 城山の標高は30m程ですが、湿地や湖沼、海に囲まれた要害 だったと考えられます。 現在、 城山には稲荷神社と愛宕神社が祀られています。周 辺には「城之内」 「堀之内」 「カラ堀」「大手」 「若殿宿」などの地名が残っています。 現在でも千葉県と茨城県の県境にあたる岩ヶ崎城は、 中世期においても下総国と常陸国の国境にあたることからも、岩ヶ崎城の緊迫した状況が推察できます。 岩ヶ崎城の詳細は不明ですが、 千葉一族国分氏が築城に着手した可能性はあ りそうです。国分氏の本城は矢作城 (大崎城) ですが、 水運の抑えのため、さらには 国境の防衛のために岩ヶ崎城を築城したとも考えられます。国分氏の主家である 千葉氏が小田原北条氏の配下となると、 国分氏も北条氏に属しました。 そのため、 岩ヶ崎城も北条氏方の城として、里見氏や正木氏、さらには常陸国の佐竹氏に備 えたと考えられます。 天正18年(1590年)の小田原の役によって北条氏が滅び、 関東に徳川家康が入 部すると、 岩ヶ崎城には家康配下の鳥居元忠が入り、 下総矢作藩4万石が立藩さ れました。 元忠は藩統治の拠点のひとつとして岩ヶ崎城の大規模な改修整備を始 めたとされています。 おそらく、常陸国佐竹氏への備えだと推察されます。 しかし、関ヶ原の戦いの前哨戦にあたる伏見城の戦いで元忠は戦死。 これにより、岩ヶ崎城の改修が中止され、 元忠の息子忠政が磐城平藩へ移封されると、矢作藩は廃藩となり、岩ヶ崎城は廃城となりました。 ◼️ 御城印デザインのご説明 要害性の高い岩ヶ崎城の御城印には、海に向かって突き出す城山の地形がわかる地図をデザインしました。 そして、 千葉一族国分氏ゆかりの城であるため、 千葉一族の家紋「九曜」 を配置しました。あわせて、天正18年以降に入部した鳥居氏の家紋 「竹に雀」 「鳥居」 を配置しました。 また、徳川家康から信頼の厚かった鳥居元忠ゆかりの城であることから、 元忠の所用兜 「鉄錆地椎実形兜」、 所用籠手 「袖付三本筒籠手」をモチーフ にしました。 これらは、 元忠を祭神とする栃木県都賀郡壬 生町に鎮座する精忠神社の社宝です。 さらに鳥居元忠画像 (壬生町 常楽寺所蔵) をモチーフにしました。 壬生は岩ヶ崎から陸奥国磐城平藩、 出羽国山形藩、 信濃 国高遠藩、 能登国下村藩、近江国水口藩への転封を経て、 正徳 2年 (1712年) に鳥居家が入封した地であり、明治維 新を迎えた地です。
-
御城印帳「椿の海」
¥2,500
20ポケット(御城印40枚まで収納可能) 「椿の海御城印帳について」 かつて下総の国の東北部 (今の旭市、匝瑳市、 東庄町) の一帯には 「 椿の海 ( つ ばきのうみ)」 という南北 4 キロメートル東西12キロメートルにわたる巨大 な湖が存在していました。 この湖は江戸時代中期に干拓により、消滅してしま いますが、それまでは、犬吠埼が海の難所であったために、これを避ける形での「香取の海(かとりのうみ)」 (今の霞ヶ浦、北浦、 印旛沼、手賀沼を一体とする巨大な湖) 経由での 東北への内陸水運ルート (図1参照) の要所にあ たり、湖畔には多くの湊(みなと)が作られると ともにこの漢を守るようにその漢に付随して多く の中世城郭が築かれました (図2参照)。 この椿の海の御城印帳は、周辺にそういったまさに水城(みずじろ) と言っても良い、 このよう な城郭群をかつて有した 「椿の海」をモチーフと して、 千葉城郭保存活用会副代表の山城ガールむ」 つみさんのオリジナルデザインにより、 作製され たものです。 末永くご愛顧いただければ幸甚です。 千葉城郭保存活用会
-
94 野手城
¥400
◼️ 野手城のご説明 千葉県匝瑳市 野手城は九十九里浜の野手浜海岸から約2km内陸に入った野手に築かれまし た。野手周辺は九十九里浜と北側の丘陵部との間に位置する低湿地帯ですが、 野 手城は砂州の微高地をうまく利用して築かれています。 現地に野手城の遺構はほとんど残っていませんが、地名や街道から野手城の姿 を想像することができます。 野手集落のほぼ中央に「御城」という字名が残り、他に も 「東門」 「上の馬場」「大門」「前古屋」「宿」などの字名が残ります。 これらから、中 世期における野手城と城下集落を偲ぶことができます。 地元の伝承によれば、かつての野手城は内堀、 中堀、 外堀に囲まれた広大な城 だったといいます。 まさに三重の堀をもつ堅固な城郭で、 内堀に囲まれた正方形の 空間が「御城」 と呼ばれる主郭だったと伝わります。 『千葉大系図』 によると、 千葉常胤の弟椎名胤光の第2子の胤知が野手を領し、 野手次郎胤知と称したとされます。 野手城の築城に関する詳細は不明ながら、この 胤知の系統が野手城を築き、 居城としたと伝わります。 天文4年(1535年)、 古河公方足利晴氏と小弓公方足利義明の対立に端を発し た「野手合戦」が起きました。 小弓公方方の八日市場城主押田氏が古河公方につ いた野手氏の居城野手城に攻め寄せ、 野手氏当主義長と子義治らが討ち死にした とされます。これにより、野手城は押田氏の城となり、八日市場城周辺は押田氏に よって掌握されました。 野手合戦において当主父子が討ち死にした野手氏ですが、 義長の弟義通が常陸 国江戸崎へ逃げ、 小田城を居城とする小田氏治に仕えたとされます。 小田氏没落後 は常陸国下妻を領する多賀谷氏に仕えたとされています。 ◼️御城印デザインのご説明 野手城は城郭遺構こそ残っていないものの、周辺には城郭の存在を示す地名 が数多く残ります。「字御城」の南側には街道が通り、 それに沿って宿が形成さ れていたと思われます。 現在もこの街道沿いには人家が密集しており、 「宿」の 字名が残ります。さらに、この街道は現在も鍵型の屈曲を伴う道筋になっており、 敵に攻め込まれにくい防衛の意図が見て取れます。 このように、地名やいまに残 ある街道から当時の城下の様相を窺い知ることができます。 御城印には、このよう な野手城の城下の構成がわかる地図をデザインしました。 また、「野手合戦」において、 野手氏が戦った押田氏の居城 である八日市場城と野手城の位置関係が分かる地図も御城印 にデザインしました。 あわせて、野手氏の出自である千葉一族の家紋 「月星」と、 野手氏の家紋 「九曜」をモチーフにしました。
-
水辺の城 第6号
¥1,000
1. 松ヶ崎城跡と手賀沼周辺 1) 保存運動と歴史からみた東葛の城と松ヶ崎城 田嶋 昌治 2) 手賀沼の千間堤を追って 編集部 2.城郭を訪ねて 1) 歴史的遺産としての城郭 森伸之 2) 布川 (府川) 城址及びその近郊 若山 善幸 3) 千葉氏の鎌倉期以降の城館について 森伸之 3. 近現代史の断面 1) 陸軍航空教育と柏の航空教育隊 森 伸之 2) 陸軍偵察機の変遷 浅野 千之 3) チリ海軍練習帆船 “エスメラルダ” 見学 山野辺 恭夫 4.地域史の窓 1) 柏市松ヶ崎にある弁財天などの石造物 編集部 5.花の便り 文: 編集部 写真: 荒井辰男ほか
-
水辺の城 第5号
¥1,000
1. 手賀沼周辺の生活と歴史 1) 手賀沼のウナギ漁と 「うなぎ道」 森伸之 2) 手賀沼干拓の歴史 (江戸時代から昭和期まで) 編集部 2. 千葉県北西部の中世城郭を探る 1) 残存遺構 地形図から見た手賀城跡の実相 森伸之 2) 千葉県白井市の折立溝状遺構について 小林 茂 3) 富塚城跡の遺構 森伸之 4) 千葉県柏市域の城郭関連地名 編集部 3.柏周辺の戦争遺跡 1) 柏飛行場と周辺戦争遺跡 森伸之 2) 柏飛行場の保有戦闘機の変遷 浅野 千之 3) 陸軍工兵学校の大正期の航空写真 森伸之 4. 地域史を訪ねて 1) 岩槻の史跡巡見 山野辺 恭夫 2) 歴史的遺産を子らの世代に 富澤 美奈子 付記: 自宅に伝わる旗本の位牌、 私塾を開いていた先祖のことなど 3) 歴史散歩 「小金城跡と周辺史跡 藤田 理恵子 4)小金の東漸寺にある竹内廉之助、 啓次郎の碑 編集部 5. 花の便り 文: 編集部 写真: 荒井辰男ほか
-
水辺の城 第4号
¥1,000
1. 当会が出来るまでと出来た頃 小柳 満雄 2.中世城郭を探る ~東葛から常総へ 「考古学からみた東葛の城館 ~発掘調査 20年の歩みと課題」講演錄 講師: 間宮 正光 「柏市域周辺地域の城跡にみる 中世城郭の発達」講演錄 講師: 佐脇 敬一郎 3. 千葉県北西部の中世世界 1) 板碑物語 ~柏市 白井市域周辺から 小林 茂 2) 本土寺過去帳と柏の中世 森伸之 4.地域史を訪ねて 1) 下総、 武蔵の海保氏について 森伸之 2) 江戸前期、 東葛にあった大名旗本陣屋 編集部 【資料紹介】 鵜多須陣屋書類箱 高橋 明男 3) 田中藩船戸代官 須藤力五郎 山野辺 恭夫 5.松ヶ崎城跡と周辺の自然 文: 編集部 写真: 荒井辰男ほか 6.松ヶ崎城跡調査・保存の歴史と当会20年の歩み 編集部
-
水辺の城 第3号
¥1,000
1. 松ヶ崎城跡の見方の変遷、謎と発見 2. 中世城郭を探る 1) 「縄張り図から見る中世城郭の実像と 松ヶ崎城」講演錄 講師:田嶌 貴久美 2) 臼井城の伝説と実像 森伸之 3. 考古学の窓 1) 呼塚遺跡発掘現場見学記録 写真・取材:岸 勝朗 2) 花戸原遺跡見学会参加記録 3) 手賀沼周辺の古代遺跡について 〜古墳を中心に〜 写真・取材: 森 伸之 編集部 4. 地域史を訪ねて 1) 「一筆啓上 火の用心」 山野辺 恭夫 2) 松ヶ崎不動尊にあった征露従軍者奉納額 森伸之 3) 柏市箕輪集落と箕輪城 編集部 4) ロケット戦闘機 「秋水」 若山 善幸
-
水辺の城 第2号
¥1,000
1. 松ヶ崎城跡に植樹された河津桜 2. 手賀沼周辺の中世 1) 「車ノ前五輪塔と柏市大井地区の中世世界」 講演錄 車ノ前五輪塔と柏市大井地区の中世世界 水上交通の視点から- 講師: 間宮 正光 3. 城郭をめぐり、遺構を考える 1) 萩原さちこ氏に聞く城めぐり 編集部 2) 松ヶ崎城跡の立地と遺構からの推論 森伸之 3) その後の小金城 廣岡 秀文 4)北畠親房入城の南朝拠点 小田城跡と小田氏の興亡 山野辺 恭夫 5) 白井市復の長殿城跡と 「城際」 地名 森伸之 4. 地域史を訪ねて 1) 小笠原諸島の戦争遺跡を訪ねて 岸 勝朗 2) 坂東市岩井で平将門の史跡めぐり 若山 善幸 3) 佐竹一族の興亡と復活 山野辺 恭夫 4) 「お気楽散歩会」 で江戸城ツアーに 参加してきました! 藤田 理恵子
-
93 大網城
¥400
◼️ 大網城のご説明 千葉県大網白里市 大網城は九十九里平野に向かって伸びる丘陵に築かれました。 北側は明治 33年の鉄道開通の際に切断されたため独立した台地になりました。 標高約40 mの 「要害山」と呼ばれる城山はその名の通り、斜面が切り立った自然の要害 となっています。 櫓台を伴う南端の曲輪から北東に向かって、 小さな曲輪が連なるように地 形に沿って配置されています。尾根上の移動を遮断するようにそれぞれが堀 切で分断され、さらに山肌は垂直な切岸になっています。 各曲輪が狭いため、 居住性はなく、居館は麓に置かれていたと推察できます。 背後を取り巻く山陵 部に城郭を拵え、居館部分を取り囲んだと思われます。 築城等に関する詳細は不明ですが、 大網城は土気城主酒井氏の重臣板倉氏 の居城と伝っています。 板倉氏についての詳細は不明ですが、「板倉」という地 名が千葉市緑区にあることから、その地を出自とする武家であるとも考えら れています。 また、板倉は土気城に近いことから、 板倉氏は土気城主酒井氏の家臣である 可能性が指摘されています。 土気、 東金両酒井氏は、 里見氏と北条氏の争いが激 化すると、 両勢力に挟まれ政治的な判断を迫られました。 そして、最終的には北 条氏に属し、天正18年(1590年) の小田原の役を迎えました。 大網城は、 小田原の 役まで土気酒井氏の支城として機能していた可能性が高いと思われます。 小田原の役の後は徳川家康家臣三浦重成が入部し、下総三浦藩( 大網、 本納、 佐倉あわせて1万石) となりました。なお、大網城の城下にある蓮照寺には三浦 重成の供養塔が残っています。 ◼️御城印デザインのご説明 大網城の眼下にはクランクを伴う街道が通り、 城下町の趣きを残していま す。 「本宿」という地名が残っていることから宿が形成されていたと考えられ ます。 さらに、 「城手」 などの城と関連する地名が残り、かつての大網城の姿を 地名から偲ぶことができます。 また、大網城からは土気城方面や、 東金城、 田間城方面を眺めることができ、 それらの城と連携して機能していたと思われます。 大網城の御城印には城下の街道や地形のわかる地図を配 し、土気城との位置関係がわかるようにデザインしました。 あわせて、縄張図もデザインしました。 また、昭和8年に松井 天山によって描かれた 「千葉縣大網鳥瞰図」 と、 土気酒井氏の 家紋をモチーフにしました。
-
92 大多喜城
¥700
◼️ 大多喜城のご説明 千葉県夷隅郡大多喜町 大多喜城は太平洋に注ぎ込む夷隅川中流域の丘陵部に築かれました。 天然の堀ともいう べく蛇行する夷隅川に囲まれていて、 堅固な要害地形を成しています。 現在の千葉県立中央 博物館大多喜城分館が本丸、 千葉県立大多喜高校が二の丸にあたります。 大多喜城の築城等の詳細は不明ですが、江戸時代に書かれた『房総治乱記』 などの軍 記物によると、大永元年(1521年)頃に上総武田氏が築城したとされています。 上総武田 氏は真里谷城、 長南城を拠点に勢力を拡大し、大多喜城も上総武田氏の拠点のひとつとなりました。 しかし、大多喜城における上総武田氏は天文13年(1544年) に正木氏と苅谷ヶ原で戦 いに及び、敗北したと伝わります。 それにより、 正木時茂が大多喜城に入城したとされ 小田 喜(大多喜) 正木氏とよばれる勢力へと発展していきました。 以後、大多喜城は里見氏、正木 氏の東上総統治における重要な拠点として、整備改修が繰り返されたと考えられます。 天正18年(1590年)の小田原合戦後、 里見氏が上総の所領を没収されると、 徳川家康 の関東移封に伴い、 上総国には家康の配下の武将たちが入ってきました。そして、大多喜城 には本多忠勝が10万石で入城し、 その際に地名を小田喜から大多喜に変更し、近世城郭と して整備改修をしました。 この改修整備では、 石垣を一切使用することなく、 大田代層といわ れる独特の地質を活かした上で、 近世城郭化を進めました。 さらに、 正木氏の中世城郭の 構造を踏襲しながらも、城下町整備、 街道整備を進めていきました。 このような忠勝の計画 的な町づくりによって、 大多喜の町は生まれ変わり、大規模な城下町として発展しました。 大多喜城は本多氏、阿部氏、 青山氏、 稲垣氏、 大河内松平氏などの統治を経て、明治維新まで存続しました。 ※戦国期の大多喜城は「小田喜城」と記されますが、ここでは戦国期においても 「大多喜城」 と記します。 ◼️ 御城印デザインのご説明 大多喜城の特別御城印 (黒地に金字バージョン)は、大多喜町に建てられている本多 忠勝像をモチーフにしました。 本多氏は三河譜代最古参の家柄で、 忠勝も徳川家康につ かえました。 忠勝は生涯で 57 回の戦いに参陣したといい、いずれの戦いにおいても傷ひ とつ負わなかったと伝わります。 織田信長からも「花も実も兼ね備えた武将」 と評された といいます。このように忠勝は武勇に優れ、数々の伝説をもつ歴史上名高い武将です。 酒 井忠次、 榊原康政、 井伊直政とともに、 「徳川四天王」 と称され、江戸時代以降、 人気 を誇り語り継がれてきました。 千葉県立大多喜高校の敷地内には、千葉県内唯一の現存城郭建 造物である二の丸御殿薬医門が移築されています。 また、 現在本丸 には、三層四階の模擬天守が建てられています。 御城印には現存す る大変貴重な薬医門と、 模擬天守ではあるものの、大多喜のシンボ ルともいえる天守をデザインしました。
-
大友城址考ー平忠常についてー
¥1,000
◾️はしがき 本書は、余が多年の研究に成ったものであるが、 自ら顧みてるものがある。年所をへること 約一千年、何等文献の信拠すべきものを見出しえ ず、単に口碑伝説の蒐集に過ぎないと譲られても、又弁疏しえないもののあるのを甚だ遺憾とする。 されど、 史蹟の探訪に際しては、 藤沢市立村岡 小学校 山武郡土気町立土気小学校(当時の国民学校)、香取郡東庄町小南福聚寺、同宮本の東大社 小見川町五郷内の樹林寺、同貝塚の来迎寺、 同岡飯田の芳泰寺、干潟町溝原の東栄寺 千葉市の大日寺などの御厚意を辱おし、更に、菅佐原源治郎、石毛誠二、掛巣市郎右衛門、上代克巳、高木豊治らの諸君をはじめ、すでに故人となられた古谷弥右衛門、保科新一 寺本篤次郎、高木卯之 助、野口保市郎、鎌形誉照、江鳩佐一の諸君には、 本書の史書としての価値ずけのために、或は東道を煩わし、或は貴重なる古文書の借覧に、格別の助言・助力を賜わり、また、本書の刊行に当っては、特に余の請托を容れられて出版を担当せられた洋々社社長梅田道之君の御厚意に対しては、ここに記して深甚の謝意を表する次第である。 昭和三十四年(一九五九) 初秋 著 者 しるす ◾️大きさ:縦25.5×横18×厚さ0.3cm
-
里見氏研究「第2号」
¥1,100
◼️いわゆる第二次国府台合戦を再検討する はじめに 永禄七年(一五六四)に起こったいわゆる第二次国 府台合戦は、一般に知名度も高いところから、房総戦 (-) 国史や関東戦国史が記されるなかでは必ず触れられる 出来事であるただそれらのほとんどは、基本的に後 述小笠原氏の論考をもとに概説風に述べられているだ けで、合戦そのものに焦点をあてた研究となると、残 された史料の少なさとも相まって、ほとんど存在しな いのが実情である。 (c) 筆者は近時里見義堯の伝記(以下本稿では『義』 とする)をまとめるにあたり、義堯期に起こった多く の出来事についても一つ一つ確認作業をすすめたが、当然この第二次国府台合戦についても改めて検討して みた。その過程で、現在通説化しているいくつかのこ とがらについては再検討の余地が十分にあり、また新 たに付け加えるべき知見や課題があることも確認するに至った。そのようなことについては、なるべく本文 中に生かすように努めたが、当該書が一般書である以 上、考証過程の詳細や新たな知見のすべてを述べるこ とはできなかった。したがってここでは、まずこの合 戦に関する研究史を確認したうえで、詳述できなかっ た部分を開示し、従来説の問題点や未解明の部分、さ らには課題を浮き彫りにしつつ、改めてその実像に少しでも迫ってみようとするものである。 滝川恒昭