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94 野手城

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◼️ 野手城のご説明 千葉県匝瑳市
野手城は九十九里浜の野手浜海岸から約2km内陸に入った野手に築かれまし た。野手周辺は九十九里浜と北側の丘陵部との間に位置する低湿地帯ですが、 野 手城は砂州の微高地をうまく利用して築かれています。

現地に野手城の遺構はほとんど残っていませんが、地名や街道から野手城の姿 を想像することができます。 野手集落のほぼ中央に「御城」という字名が残り、他に も 「東門」 「上の馬場」「大門」「前古屋」「宿」などの字名が残ります。 これらから、中 世期における野手城と城下集落を偲ぶことができます。

地元の伝承によれば、かつての野手城は内堀、 中堀、 外堀に囲まれた広大な城 だったといいます。 まさに三重の堀をもつ堅固な城郭で、 内堀に囲まれた正方形の 空間が「御城」 と呼ばれる主郭だったと伝わります。

『千葉大系図』 によると、 千葉常胤の弟椎名胤光の第2子の胤知が野手を領し、 野手次郎胤知と称したとされます。 野手城の築城に関する詳細は不明ながら、この 胤知の系統が野手城を築き、 居城としたと伝わります。

天文4年(1535年)、 古河公方足利晴氏と小弓公方足利義明の対立に端を発し た「野手合戦」が起きました。 小弓公方方の八日市場城主押田氏が古河公方につ いた野手氏の居城野手城に攻め寄せ、 野手氏当主義長と子義治らが討ち死にした とされます。これにより、野手城は押田氏の城となり、八日市場城周辺は押田氏に よって掌握されました。

野手合戦において当主父子が討ち死にした野手氏ですが、 義長の弟義通が常陸 国江戸崎へ逃げ、 小田城を居城とする小田氏治に仕えたとされます。 小田氏没落後 は常陸国下妻を領する多賀谷氏に仕えたとされています。

◼️御城印デザインのご説明
野手城は城郭遺構こそ残っていないものの、周辺には城郭の存在を示す地名 が数多く残ります。「字御城」の南側には街道が通り、 それに沿って宿が形成さ れていたと思われます。 現在もこの街道沿いには人家が密集しており、 「宿」の 字名が残ります。さらに、この街道は現在も鍵型の屈曲を伴う道筋になっており、 敵に攻め込まれにくい防衛の意図が見て取れます。 このように、地名やいまに残 ある街道から当時の城下の様相を窺い知ることができます。 御城印には、このよう な野手城の城下の構成がわかる地図をデザインしました。

また、「野手合戦」において、 野手氏が戦った押田氏の居城 である八日市場城と野手城の位置関係が分かる地図も御城印 にデザインしました。

あわせて、野手氏の出自である千葉一族の家紋 「月星」と、 野手氏の家紋 「九曜」をモチーフにしました。

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