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42 志摩城
¥400
⬛︎ 志摩城のご説明 志摩城は享徳の乱の際、 千葉胤直が籠り、子息の宣胤が籠った多古城ともども、馬加胤、 原胤房らによって攻められ、 千葉宗家が滅びる現場となった歴史上重要な戦国・中世城郭 です。 現在、城跡には、 塙台、 二ノ台と言われる東西2つの郭や、この2つの郭に挟まれた舟着 場と見られる場所、 枡型虎口等の遺構が良好に残っています。 ⬛︎ご城印デザインのご説明 志摩城は城跡だけではなく、城下の島集落と一体化された浮城的総構えを有する中世期の 防衛遺構と捉えられる城郭であり、 地名の「島」は、水田の中に浮かぶ独立丘陵を言い表し たものといえます。 ちなみに、この中世期の形態が良くあらわされた江戸期の島全体の古地図が多古町には伝 わっており、 御城印においては、この古地図をモチーフとして表現を行うとともに、千葉氏の 家紋を配してデザイン化しています。
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41 玉造城
¥400
⬛︎ 玉造(たまつくり) 城のご説明 千葉県香取郡多古町 玉造城は栗山川東岸に位置し、その支流常磐川との合流域を北に望む樹枝状台地の先端に築かれています。 小丘ながらも三方を急峻な崖に囲まれた天然の要害となっています。 郭、腰曲輪、空堀、土塁 などの遺構が残っており、 現在残る南北二つの郭から、直線的に連なる連郭式城郭の姿が推測できます。 北側の郭には土塁が良好に残り、 南西隅には八幡神社が祀られています。 八幡神社の高まりは櫓台と思 われ、南側郭との間の空堀と合わせて、守りを固めているのが見てとれます。 この城の築城者等詳細は不明ですが、弘安年間(1278年~1287年) に野平伊賀守常弘が城主であっ たと伝わり、南北朝期においては、千葉胤貞による日本寺防衛のための北側の要塞として整備された可 能性も指摘されています。 天正16年(1588年)に城主だった野平常義は城を明け渡し僧になったとも伝わりますが、戦国期に野平氏 は小田原北条氏方に属していたとされ、城跡には天正18年4月没の常義の墓碑も残っています。そして、 同年の小田原合戦で北条氏が豊臣方に敗北すると、 玉造城も開城となりました。 ⬛︎御城印デザインのご説明 「城下には「宿」という小字名が残っていて、 街道が通り、城下が形成されていたことが推測できます。また、「門 「場」という屋号を持つ家があることからも、そこに城の木戸があったことが推測でき、当時の城の姿が浮か んできます。それらのことから、御城印には江戸時代に描かれた絵図をモチーフにしました。 「伊賀守居城」 や「大手」などの文字も見てとれます。 また、櫓台が玉造城のシンボルと考え、 現在、 八幡神社が建て られている現地の景色をデザインしました。 小田原北条氏の敗戦で城が明け渡しとなった際、 野平氏の佐良姫がさらわれそうになったのを佐竹義重 が助けたという伝承が残り、 佐良姫は税のかからない免祖田をもらい庵を立て、暮らしたといいます。その 地は今でも「サラ免」という名で呼ばれているといい、 土地には玉造城を偲ぶ伝承が色濃く残ります。
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40 分城
¥400
⬛︎ 分(わけ) 城のご説明 千葉県香取郡多古町 分城は、中世には湖沼等低湿地帯が広がっていた栗山川流域を見下ろす舌状台地の先端に 築かれました。 築城年代や城主は定かではありませんが、居館が「窪 (久保城)」にあったとされ る千葉氏宗家当主千葉胤貞 (1288年-1336年)が防衛拠点として分城を築いたとも伝わります。 主郭と推測される方形の区画には、千葉氏の守護神である妙見神社が祀られており、その周囲 には土塁や空堀、 物見台が良好な形で残っています。 妙見神社の社は、文政年間に今の場所に 移されたといい、それまでは「一の屋敷」 といわれる分城の東側周辺に置かれていたと地元では伝わっ ています。 主郭をめぐる土塁はほぼ一周しており、途中に張り出しが設けられていて、横矢が掛かる構造になっ ていますが、今に残る城の姿はいつの時代のものか定かではありません。 南北朝時代、胤貞は北朝方につき、南朝方についた従弟の貞胤と戦いました。そのような中で多古も戦いの舞台となり、 その騒乱が下総国に広がっていきました。 分城周辺でも戦闘行為が繰り広げられたのではないでしょうか。 ⬛︎御城印デザインのご説明 分城は小城ながらも、かつての広大な低湿地帯の名残りである栗山川を見下ろすことができ、水 上交通の要衝だったことが見てとれます。 これは、千田荘 (下総国匝瑳郡 現在の多古町周辺) を領地にしていた千葉氏宗家当主胤貞が築いたとされる伝承にふさわしい眺めといえるでしょう。 御城印には分城の城山の姿と、かつて麓近くまで迫っていたであろう湖沼をデザインしました。そし て、千葉氏の家紋 「月星」 を配置し、 分城の縄張図をモチーフにしましました。 胤貞は日蓮宗に深く帰依しており、 胤貞が創建した日本寺をはじめ日蓮宗の古刹が今でも多古に は多く残っています。中世から変わることなく歴史が引き継がれている多古の実り豊かで美しい自然の 残る風景を描きました。
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39 中城
¥400
⬛︎ 中城のご説明 千葉県香取郡多古町 中城は多古町南東部の中村地区に位置し、 中村小学校の東方 借当川に開けた谷津に 突き出た舌状台地に築かれました。 周辺の台地は、 「中村の台地」 とも呼ばれ、鎌倉時代 や南北朝時代に開山された古刹正東山日本寺や正峰山妙興寺、 竹林山妙光寺などがあり、 まさに多古の中心地ともいえます。 千葉氏宗家当主だった千葉胤貞 (1288年-1336年) がこの台地上に 「中城」 という城を築 いたとも伝わりますが詳細は定かではありません。 「中城」 いう地名は、谷を隔てた諏訪 神社側の台地上にも残っていて、台地全体を広義の意味での 「中城」とする考えもありま す。いずれにしろ、中村の台地全体が要衝地であり、戦国期に改修整備が施され、重要 な防衛拠点として使われたと考えられます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 中城の築かれた中村の台地には、鎌倉時代から日本寺をはじめとする日蓮宗寺院が建 てられ、北総一円の日蓮宗の布教拠点となっていました。 千葉氏宗家は熱心な日蓮宗徒 であり、このことからも千葉氏宗家と多古の関係の深さが分かります。 日本寺には全国から多くの学僧が集まり、 慶長4年(1599年) になると、 僧侶の学問所として後に関東三大檀林に数えられる「中村檀林」 の開講となりました。 御城印には、中世からの重要地に築かれた中城の縄張図を中心にデザインするとともに、千葉氏の家紋である 「月星」 を配置しました。
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38 土橋城
¥400
⬛︎ 土橋城のご説明 千葉県香取郡多古町 土橋城は、 栗山川西岸沿いの南北に伸びた台地先端に築かれています。 この地は水陸交通の要衝で、 栗山川という水運の幹線と、 城下を走る佐原への街道 (多古街道)という陸上の幹線を押さえるための 場所だったと考えられています。 隣り合う谷筋にあり、 土橋城とも深い関係をもっていた土橋山東禅寺は、鎌倉幕府以来の名刹である 金沢山称名寺(横浜市) と繋がりが深く、中世において房総半島でも中心的な寺院でした。土橋城は その東禅寺の出入り口をも見張る役目も担っていました。 南北朝時代に千葉氏は一族で分裂し、 南朝方の千葉貞胤と北朝方の千葉(千田) 胤貞が従兄弟どう しでありながら争うことになりました。 この南北朝の争乱では 「土橋合戦」 といわれる戦いが土橋城で繰り 広げられたことが「金沢文庫文書」に残ります。 その後も「享徳の乱」 に端を発した千葉宗家滅亡の戦いにも土橋城は関連したと思われ、まさに交通、政治、経済等の最重要地だったのです。 現在、土橋城の南側、 栗山川を見下ろす台地南端の高まりに、千葉氏の信仰である妙見様が祀られ ていますが、その高まりは水陸の街道を見張る物見台だったと考えられています。 遺構としては薬研の堀や、 その堀と食い違いに掘られた堀も確認されており、 南北朝の争乱から戦国期へと時代が進む中で堅固な 城へと改変されていった土橋城の姿が想像できます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 土橋城の城下には「船渡」という地名が残っており、今は水田になっている土橋城の周辺は、中世におい ては船が行き来できる立地であったことが推測できます。 さらに土橋城と一体を成している東禅寺は、中世には房総の中心的寺院であり、各地からたくさんの産物などの行き来があったと思われ、その荷の上げ下ろしがされる湊が土橋城の眼下にあったと考えられます。 そのことから御城印には土橋城が築かれた台地の遠景をデザインし、入江を描き、船を浮かべました。さら に地形の分かる地図をモチーフにし、 千葉氏の家紋 「月星」 を配置しました。
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37 多古城
¥400
⬛︎ 多古城のご説明 多古台バスターミナルの東側の台地に占地する城跡です。 築城年代については、明確ではありませんが、1455年享徳の乱の際中に、 千葉宗家の若 武者千葉宣胤が籠り奮戦したお城です。 また戦国期には、 現在多古町内の親社大神に祀 られる牛尾胤仲が城主となり、 多古の治世を行ったお城でもあります。 ⬛︎ご城印デザインのご説明 多古城跡では、1991年から1998年にかけて行われた発掘調査により、 戦国期の畝堀の存 在が明らかになりました。 この畝堀は、その後の開発により、惜しくも失われましたが、 今も城跡には、畝堀の延長上に 折れを伴った技巧的な空堀、 帯曲輪、 物見台跡、 虎口等が良好に残っています。 御城印においては、この発掘により見つかった畝堀の姿を当時の写真をモチーフとして表現 するとともに、千葉氏、 牛尾氏の家紋を配してデザイン化をいたしました。
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36 長南城
¥400
⬛︎ 長南(ちょうなん) 城のご説明 千葉県長生郡長南町 長南城は長南川に沿うように形成された市街地の東側丘陵に築かれました。 長南城が築かれた 「長南」は、 長柄郡の南部分にあたる、もしくは長柄郡の南方の場所との語源を持ち、 上総国の山間部にあたります。 周辺 の丘陵は痩せ尾根となっていて、 長南城はそれらの丘陵部や谷を取り込むように城郭化され、 約1km四方の 範囲に城郭遺構が認められる千葉県を代表する大規模城郭といえます。妙見社~太鼓森の丘陵には造成さ れた平坦面がみられ、 また、 長久寺周辺には堀切、 切岸、 腰曲輪などのまとまった城郭遺構が認められます。 長南城の築城年代や築城主などの詳細は不明ですが、 長南の地は上総平氏の流れである長南氏の支配を 経て、上総武田氏の領するところとなりました。 かつての長南氏の城館がいずれにあったかは不明ですが、 武田氏がこの地に入ってきた後は長久寺から太鼓森に掛けての丘陵に長南城を築城もしくは整備したと思 われます。 武田氏が守護を務めていた甲斐国は上杉禅秀の乱(1416) 以降、混乱状態にありましたが、永享の乱 (1438)の頃に武田信重が守護として復権し、弟の信長は鎌倉公方足利成氏に仕え成氏の側近となりました。 そして、享徳の乱 (1454) を契機に信長は成氏の命を受けて上総国に入部し、敵対する関東管領上杉陣営 との戦いの拠点とするため、 長南城と真里谷城を築いたと伝わります。 そして、 上総武田氏は真里谷城 (木 更津市) を拠点とする真里谷武田氏と、 長南城を拠点とする長南武田氏に分かれていきました。 長南武田氏 は真里谷武田氏に比べて良質な文献が少ないため、不明なことが多く、確実に実在が認められているのは 最後の当主豊信だけです。 豊信はその手腕を発揮し、16世紀の中頃には長南と池和田 (市原) までを領国化 し、衰退した真里谷武田氏にかわって戦国大名となりました。 しかし、最後は小田原北条氏に属し、小田原 落城の際は北条氏と運命を共にし、 豊信は自害したと伝わりますが、地方に逃れたとも伝わっています。 その 後、徳川家康の関東入部に伴い、本多忠勝が天正18年(1590) 6月~7月の間、 長南城に滞在したとされています。 ⬛︎ 御城印デザインのご説明 周辺の丘陵や宿などを取り込んで、 長南武田氏の大城郭となった長南城の御城印には、その規模が分かる 地図をモチーフにしました。 長南城の最高所は標高約80mの 「太鼓森」 と呼ばれる丘陵で、 太鼓森には平坦に 造成された曲輪が点在し、現在は妙見社が建っています。 太鼓森はその名の通り、 有事の際には合図、伝令の 太鼓が打ち鳴らされたと伝わることから、御城印には太鼓を描き、当時をイメージしました。 長南武田氏の最 後の当主豊信は里見氏と北条氏の間を巧みに生きた房総を代表する戦国武将です。 御城印には豊信の肖像画 (長南町郷土資料館提供) と花押をデザインするとともに、武田氏の家紋 「四つ菱」 を配置しました。
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35 佐倉城
¥400
SOLD OUT
⬛︎ 佐倉城のご説明 戦国時代、佐倉千葉氏により、 築城が開始されましたが、江戸期に入り、 石垣を用いない近世城郭として完成しました。 佐倉城の城主は、江戸幕府 の要職に就くことが多く、 長く、 城主となった堀田家は、江戸期の幕政を長 きにわたり支えた幕府内の重要な家柄でした。 現在、城址には多くの郭や堀の形状が良好に残るとともに、 国立歴史民 俗博物館建設の際の発掘整備により、 空堀と土塁を復元して馬出を再現し ています。 佐倉市の指定史跡であるとともに、 日本100名城にも選定されて いる日本を代表する城郭の一つとなっています。 ⬛︎御城印デザインのご説明 佐倉城には天守閣となる御三階櫓があり、 佐倉城のシンボルとなっていま したが、文化10年 (1813年)に焼失し、その後は再建されませんでした。 御城印においては、この御三階櫓の在りし日の雄姿を描くとともに、現在千 葉県下有数の桜の名所となっている佐倉城址のイメージをあわせてデザイン 化しています。 また、 江戸期に幕政を支えた堀田家の家紋も背景として、あし らっております。 なお、この御三階櫓の復元模型は、 城内の佐倉城址公園管理センター に展示されております。
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34 東の城
¥400
⬛︎ 神崎城 (東の城)のご説明 千葉県香取郡神崎(こうざき) 町 神崎(こうざき) 城はかつての香取の海、 現在の利根川に突き出た丘陵に築かれました。 神崎城は「東の城」、 「中の城」、 「西の城」の3城から成っており、この3城を総じて「神崎城」と称します。 神崎城は千葉氏隆盛の祖である千葉常胤の曾孫にあたる神崎師時が鎌倉時代中期に築城したと伝わりますが現在の遺構は戦国時代末期のものと推察されます。 城域は丘陵全体に広がり、その規模は南北約2キロメートル、東西約500メートルに及びます。 そして、 丘陵上に連なるように東の城、中の城、西の城を設け、さらには周囲に田向城、 小松城を築き、それらすべ てが連携する構造となっています。 このように配置された防衛網は、 神崎周辺の湊に対する重厚な監視機能と富の利得の機能をも有していたと考えられ、これらの湊からの富こそが歴代の神崎氏繁栄の一翼を担っていたものと推察されます。 神崎氏は途中の中絶はあるものの、師時以来、神崎地域の領主として君臨し、戦国時代には千葉氏を介し て小田原北条氏に属しました。 天正18年(1590年)の小田原合戦の際は、小田原城に入城し、豊臣方との戦 いにのぞみましたが小田原北条氏の敗退にともない、 神崎城も開城落城しました。まさに神崎城をはじめと する城郭群こそが、 中世を通して神崎を領した神崎氏の繁栄の証といえます。 <東の城について> 東の城は最北端に当たる城であり、東の城、 中の城、 西の城の3城の中では、もっとも古いものと推定されています。 神崎師時が最初に築城した場所ではないかとも伝わります。 城郭遺構としては、土塁、 空堀が残るとともに、楕円形状を呈する狭い一郭と長径約110メートル、 短径約50メートルに及ぶ方形の二郭に分かれています。 ⬛︎御城印デザインのご説明 神崎城の城下には中世から街道が通り、宿が形成されていたと思われます。 御城印には、水上交通と陸上 交通の要衝地だった神崎の地図をモチーフにしました。 神崎のシンボルである神崎神社は、ランドマークとして古くから存在しており、 その由緒ある歴史と風光 明媚な周辺の景色は絵図にも描かれました。 御城印には神崎の周辺に広がっていた香取の海と行き交う舟、 そして神崎神社の鎮座する神崎山から神崎城へ続く丘陵をデザインしました。 神崎氏は千葉一族の庶流であることから、 千葉一族の家紋 「月星」 と 「九曜」 を配置しました。 神崎城は「東の城」、 「中の城」、 「西の城」 の3城から成るため、 御城印は3枚並べると神崎の美しい風景 が完成するようにデザインしました。
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33 中の城
¥400
⬛︎ 神崎城 (中の城)のご説明 千葉県香取郡神崎(こうざき) 町 神崎 (こうざき) 城はかつての香取の海、 現在の利根川に突き出た丘陵に築かれました。 神崎城は「東の城」、 「中の城」、 「西の城」の3城から成っており、この3城を総じて「神崎城」と称します。 神崎城は千葉氏隆盛の祖である千葉常胤の曾孫にあたる神崎師時が鎌倉時代中期に築城したと伝わります が、現在の遺構は戦国時代末期のものと推察されます。 城域は丘陵全体に広がり、 その規模は南北約2キロメートル、東西約500メートルに及びます。 そして、 丘陵上に連なるように東の城、中の城、 西の城を設け、さらには周囲に田向城、 小松城を築き、それらすべ てが連携する構造となっています。 このように配置された防衛網は、神崎周辺の湊に対する重厚な監視機能と富の利得の機能をも有していた と考えられ、これらの湊からの富こそが歴代の神崎氏繁栄の一翼を担っていたものと推察されます。 神崎氏は途中の中絶はあるものの、師時以来、 神崎地域の領主として君臨し、戦国時代には千葉氏を介し て小田原北条氏に属しました。 天正18年(1590年)の小田原合戦の際は、小田原城に入城し、豊臣方との戦 いにのぞみましたが小田原北条氏の敗退にともない、 神崎城も開城落城しました。 まさに神崎城をはじめとする城郭群こそが、 中世を通して神崎を領した神崎氏の繁栄の証といえます。 <中の城について> 中の城はその名の通り、東の城、 中の城、 西の城の3城の真ん中に位置します。 南側は急崖となっていて 神崎神社別当寺の神宮寺の境内地に繋がっています。 東西約130メートル、 南北約110メートルの方形の区画が形成され、北側には古墳を利用した物見台と、そこから伸びる土塁が良好に残っています。 ⬛︎御城印デザインのご説明 神崎城の城下には中世から街道が通り、 宿が形成されていたと思われます。 御城印には、水上交通と陸上 交通の要衝地だった神崎の地図をモチーフにしました。 神崎のシンボルである神崎神社は、ランドマークとして古くから存在しており、 その由緒ある歴史と風光 明媚な周辺の景色は絵図にも描かれました。 御城印には神崎の周辺に広がっていた香取の海と行き交う舟、 そして神崎神社の鎮座する神崎山から神崎城へ続く丘陵をデザインしました。 神崎氏は千葉一族の庶流であることから、 千葉一族の家紋「月星」 と 「九曜」 を配置しました。 神崎城は「東の城」、 「中の城」 「西の城」 の3城から成るため、御城印は3枚並べると神崎の美しい風景 が完成するようにデザインしました。
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32 西の城
¥400
⬛︎ 神崎城 (西の城)のご説明 千葉県香取郡神崎(こうざき) 町 神崎(こうざき) 城はかつての香取の海、 現在の利根川に突き出た丘陵に築かれました。 神崎城は「東の城」、 「中の城」、 「西の城」の3城から成っており、この3城を総じて「神崎城」と称します。 神崎城は千葉氏隆盛の祖である千葉常胤の曾孫にあたる神崎師時が鎌倉時代中期に築城したと伝わります が現在の遺構は戦国時代末期のものと推察されます。 城域は丘陵全体に広がり、 その規模は南北約2キロメートル、東西約500メートルに及びます。 そして、 丘陵上に連なるように東の城、 中の城、西の城を設け、さらには周囲に田向城、小松城を築き、それらすべ てが連携する構造となっています。 このように配置された防衛網は、神崎周辺の湊に対する重厚な監視機能と富の利得の機能をも有していた と考えられ、これらの湊からの富こそが歴代の神崎氏繁栄の一翼を担っていたものと推察されます。 「神崎氏は途中の中絶はあるものの、師時以来、神崎地域の領主として君臨し、戦国時代には千葉氏を介し て小田原北条氏に属しました。 天正18年(1590年) の小田原合戦の際は、小田原城に入城し、豊臣方との戦 いにのぞみましたが小田原北条氏の敗退にともない神崎城も開城落城しました。 まさに神崎城をはじめと する城郭群こそが、 中世を通して神崎を領した神崎氏の繁栄の証といえます。 <西の城について> 西の城は東の城、 中の城、 西の城の3城の中でもっとも城域が広く、戦国期にはこれらの城郭群の中で中心であったと推察されます。 現在は、町の公共施設が建っていますが、 周辺には土塁、 空堀跡が残存するとともに、 崖地部分にはいく つかの腰曲輪も良好に残っています。 この腰曲輪による重厚な防衛構造は西の城の特徴の一つといわれてお り、比高約30メートルの台地及びその周囲の人工的な急崖化とともに、戦国期の房総の城郭の特徴を良好に 残す城郭として評価されています。 ⬛︎ 御城印デザインのご説明 神崎城の城下には中世から街道が通り、宿が形成されていたと思われます。 御城印には、水上交通と陸上 交通の要衝地だった神崎の地図をモチーフにしました。 神崎のシンボルである神崎神社は、ランドマークとして古くから存在しており、 その由緒ある歴史と風光 明媚な周辺の景色は絵図にも描かれました。 御城印には神崎の周辺に広がっていた香取の海と行き交う舟、 そして神崎神社の鎮座する神崎山から神崎城へ続く丘陵をデザインしました。 神崎氏は千葉一族の庶流であることから、 千葉一族の家紋 「月星」 と 「九曜」を配置しました。 神崎城は「東の城」、 「中の城」 「西の城」 の3城から成るため、 御城印は3枚並べると神崎の美しい風景 が完成するようにデザインしました。
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31 本佐倉城
¥400
⬛︎ 本佐倉城のご説明 千葉県印旛郡酒々井町 下総守護千葉氏が文明年間(1469年~1486年) に築城し、 天正18年(1590年) に滅亡するま での約100年間、当主9代が居城とした戦国時代の城です。 水上交通の大動脈であった印旛浦に面し、主要街道が交差する陸上交通の要衝の地に築かれました。 面積約35万㎡の規模を誇る本佐倉城は10の郭から構成され、防御性の高い内郭群と広大な 外郭群にわけられ、さらにその周囲には城下町が形成されました。 すべて土の造成によって構築された大規模な空堀や土塁、 櫓台に守られた郭群や虎口は現在 も明瞭に姿をとどめ、戦国時代の城の迫力と息吹を感じさせます。 平成10年9月11日に貴重な文化財として国史跡に指定されました。 ⬛︎御城印デザインのご説明 水上交通の要衝であった印旛浦に面して築かれた本佐倉城の御城印には、その印旛浦を望む風景を描きました。 本佐倉城の城下は、 城郭や寺院などに囲まれた広大な城郭都市でした。 城下には佐倉宿、酒々 井宿、鹿島宿、 浜宿などの宿が形成され、 浜宿湊も存在しました。 そして、丘陵には厳島砦などと呼ばれる城郭が築かれるとともに、妙胤寺などの寺院や「右京 屋敷」 「肥前屋敷」などといわれる有力家臣の屋敷も城郭化されました。 まさに本佐倉城は、そ の周辺地域も含め、 城下町全体が城郭化された難攻不落の城でした。 御城印には本佐倉城周 辺の地形や城郭、 寺院、 家臣屋敷等がわかる地図をデザインしました。 さらに、千葉氏の家紋 「月星」 と 「九曜」をそれぞれ配置し、あわせて8代邦胤の龍の朱印を モチーフにしました。 邦胤は里見氏の侵攻に対抗しながら家臣たちをまとめていきますが、天正 13年(1585年) に若くして死去しました。 この邦胤の後継者争いが深刻化したことによって、 小田 原北条氏の氏政、 氏直の佐倉進駐をもたらすことになったのです。
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30 飯沼陣屋
¥400
⬛︎ 飯沼陣屋のご説明 千葉県銚子市 飯沼陣屋は下総国海上郡飯沼村(現在の銚子市陣屋町) に置かれた上野国高崎藩の陣屋です。 現在の陣屋公園一帯に相当します。 海上郡周辺は、中世には香取の海が広がる水運の要衝地でした。 平安時代から戦国時代に かけては、 千葉一族である海上氏が領地としていました。 海上氏は銚子周辺に中島城などの 城を築き、 円福寺などの寺院も保護し、 勢力を拡大していきました。 しかし、海上氏が小田原北条氏とともに没落すると、徳川家康配下の松平 (五井) 伊昌(こ れまさ)が下総国に入封、 海上郡内 4000 石を加増され、銚子に陣屋を築いたとされます。 五 井松平氏の陣屋の場所は定かではありませんが、後の高崎藩銚子陣屋と同じ場所だった可能性も指摘されています。 陣屋は、五井松平氏の遠江国移封により、 廃されました。 そして、その後、 高崎藩の出張陣屋として築かれたのが飯沼陣屋です。 松平 (大河内) 輝貞 が享保2年(1717年)に高崎に入った際、海上郡の7村を与えられ、 陣屋を築いたとされます。 以来、明治まで高崎藩の出張陣屋として存続しました。 陣屋周辺には水堀がめぐらされ、長方形の区画に長屋門、 役所などが配置されていたといいます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 高崎藩は約150年間にわたり、銚子を統治しました。 郡奉行1人、 代官2名を銚子に派遣し 領内の年貢の徴収や治安維持に当たらせました。 御城印は、弘化4年(1847年) に描かれた『高 崎藩銚子陣屋地図』をモチーフにしました。 陣屋の屋敷の配置や、 陣屋を囲む水堀などが描かれ、 当時の姿を今に伝えています。 また、江戸時代になると利根水運が江戸に通じるようになり、銚子は江戸への中継港となり ました。そのため、東北諸藩の船や日本海から江戸に向かう北前船も銚子に寄港し、銚子の町 は発展しました。 その船と渡辺崋山が描いた銚子の町をモチーフにしました。 崋山は文政8年(1825年) に武蔵、 常陸、 下総、上総めぐりの旅に出ました。 そのとき、 崋山 が描いた「四州真景図巻」 が残っていて、銚子の海や町も描かれています。 「新町大手、 奉行屋敷」 と書かれた絵は、陣屋周辺を描いたものと思われていて、 酒屋の土蔵や、 陣屋の門 高札など が描かれ、 銚子の活気を感じることができます。
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29 中島城
¥400
⬛︎ 中島城のご説明 千葉県銚子市 中島城は利根川に面する標高40mほどの台地に築かれ、 東西約500m、 南北約400mを城域とする 大規模城郭です。 中世には香取の海に面する水運の要衝地にあたり、 千葉一族海上氏の居城と考え られていて、戦国期には千葉氏の下総統治の拠点のひとつだったと思われます。 周辺に残る海上氏ゆかりの寺院には、鎌倉期の仏像が安置されており、 また、周辺からは鎌倉時 代の経筒も出土しています。 これらのことからも、すでに鎌倉期には海上氏がこの地域を本拠地に していたと考えられていますが、折れを伴う空堀などの遺構から、現在の形態は戦国期の城郭であ ると思われます。 空堀の一部には湿地となっている箇所もあり、中世城郭には珍しい台地上の帯曲 輪部分に水堀の存在が指摘される貴重な城です。 海上氏は平安期に両総平氏の常衡、 常幹父子を祖として歴史舞台に登場しましたが、まもなく衰 退しました。 鎌倉時代になると、源頼朝の幕府樹立に貢献した千葉常胤の子、 胤頼から始まる東氏 の庶流が海上庄を領して、海上氏を名乗りました。 そして、 室町期には鎌倉公方の奉公衆となり、 勢力を拡大していきました。 「戦国期になると、 千葉宗家当主昌胤の庶子だった胤富が婿として海上氏を継ぎ、 森山城(香取市)に入りました。 その後、 胤富が千葉宗家に戻り、当主として本佐倉城に入りましたが、 胤富との関 係からその後も中島城や森山城は整備拡張されたと考えられます。 城内の堀跡付近と思われる箇所から大量の石塔が出土しており、詳細は不明ながらも、永禄年間 には正木氏による下総侵攻、 そして天正18 年には千葉氏が属していた北条氏の小田原城が落城するなどの流れの中で中島城も落城し、破城された可能性もあると考えられています。 ⬛︎ 御城印デザインのご説明 「海上氏は「鶴の丸」を紋としていました。 平安時代末期に、源頼朝から海上常幹が鶴亀のついた扇 を下賜されて以来、 海上氏の紋として「鶴の丸」が使用されていたといいます。 千葉胤富の印判とし て有名な「鶴丸型黒印」は、当初、海上氏を継いだ胤富が海上氏の「鶴の丸」に基づいて作成したもの と考えられています。 御城印は胤富の鶴丸の印判と、千葉一族の家紋「九曜」をモチーフにしました。 中島城は香取の海に面する水運の重要地であり、周辺には津が点在していました。 御城印には、野 尻や高田といった中島城と関連する湊集落がわかる地図をデザインしました。 これらの湊を拠点に活 動する戦国期の流通商人の存在も確認されていて、その代表格が 「宮内清右衛門」であり、城下には「み 「やせい」という地名も残ります。 水運を介した流通商人も中島城とともに海上氏発展の一因を担って いたのです。
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28 小見川陣屋
¥400
⬛︎ 小見川陣屋のご説明 千葉県香取市 小見川陣屋は現在の小見川中央小学校の地に築かれた小見川藩の陣屋です。 南北175m、東西150mほどの規模で、 その敷地は黒部川河畔まで広がっ ていました。 徳川家康が関東に入ると、 家康の家臣松平家忠が小見川に入封しました が、家忠は関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで戦死しました。 そ の後、土井利勝、 安藤重信らが入るも、 安藤氏の移封を受けて廃藩となり ました。 寛永16年(1639年) に内田正信が下総国、 常陸国で加増され大名になり、 小見川藩主となりました。 正信の死後、 元禄元年(1688年)に小見川陣屋 が置かれました。 当初、 内田氏の居所は下野国鹿沼でしたが、 享保9年 (1724年) に小見川に移り、 小見川藩が再立藩され、以後明治まで内田氏 は一万石の大名として存続しました。 小見川は香取の海に直結する水運の要衝のため、すでに鎌倉時代には千 葉一族である粟飯原氏が領地としていたとも伝わっています。 戦国時代に なると、 粟飯原氏が小見川城 (現小見川城山公園) を築きますが、対抗勢 力であった里見方の正木氏が下総国に侵出し、 小見川城を攻撃。 その際、 正木方が小見川城攻めの陣城である橋向城を築いたのが後の小見川陣屋の地にあたります。 ⬛︎御城印デザインのご説明 小見川藩1万石の譜代大名内田氏は、遠江国内田郷に起源を持ち、 今川 氏、徳川氏に仕えました。 慶安4年 (1651年)、 徳川家光の病死に際し、当 時の当主正信は殉死を遂げました。 その後を継いだ正衆(まさもろ)以降も、 用水堰の整備などに尽力し、 小見川を発展に導きました。 御城印には内田 氏の家紋 「内田久留子 (くるす)」を配置しました。 古くから水運の要衝だった小見川は、江戸時代には利根川舟運の河港と して栄えました。 陣屋にも黒部川から水路を引き込み、船着き場が設けら れていました。 このような陣屋は全国的にも珍しく、小見川陣屋の特徴と いえます。 御城印は繁栄を偲ばせる当時の陣屋の絵図を モチーフにし、小見川中央小学校の校舎の上に飾られて いた鯱(しゃちほこ)をデザインしました。 これは、江 戸時代のものと推定されていて、明治16年に建設された 第一校舎棟上に飾られていたものです。 その校舎の解体 にあたり屋根から下ろされ保管されています。
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27 小篠塚城
¥400
⬛︎ 小篠塚城のご説明 千葉県佐倉市 小篠塚城は、印旛沼への最大流入河川である鹿島川に面した半島状の台地先端に築かれました。 一部、発掘調査が行われていて、古墳時代の住居跡も検出されています。 小篠塚城の築城年代などの詳細は不明ですが、16世紀中頃から末頃と考えられる遺構が良好に残っています。 現在は正慧寺(しょうけいじ)とその塔頭安養院が城内に建っています。 平安時代から鎌倉時代の初めには、小篠塚城の周辺は印東氏の領地でした。 その後は、千葉氏の領地になり、15世紀前半には平河氏と宍倉氏が知行していたことがわかっています。 享徳3年(1454年)に鎌倉公方足利成氏が関東管領の上杉憲忠を謀殺。これにより、 享徳の乱が 起きました。 転戦中に本拠地鎌倉を占拠された成氏は鎌倉に入ることができず、 古河城に入り、以後、古河公 方と呼ばれるようになりました。享徳の乱の終結後も動乱が続き、 文亀2年 (1502年) から永正元年 (1504年)までの間、 成氏の跡を継いで2代古河公方となった政氏とその子である高基が小篠塚城に 動座しました。 動座した理由は定かではありませんが、その頃、政氏と千葉孝胤 (のりたね)は関係が 悪化していたともいわれていて、小篠塚城は当時の状況を考える鍵になる重要な城といえます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 御城印には小篠塚城に動座した古河公方足利政氏、高基のそれぞれの花押をデザインしました。 あわせて、初代古河公方足利成氏の花押もデザインしましまた。 成氏の居城であった古河城が文明 3年 (1471) に攻められ占拠された際、 成氏が頼ったのは千葉孝胤(のりたね)でした。 成氏は小篠 塚城には入っていないと考えられていますが、 小篠塚城は千葉氏ゆかりの城のため、この地域と古河公 方の関係の深さが偲ばれます。 足利氏の家紋「二つ引両」 と、古河公方を支援した千葉氏の家紋 「月星」 を描きました。 さらに御城印には、 小篠塚城に動座した古河公方足利政氏、 高基父子を描いた絵 (正慧寺ご提供) をモチーフにしました。
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26 佐貫城
¥400
⬛︎ 佐貫城のご説明 千葉県富津市 佐貫城は染川とその支流の北上川に囲まれた丘陵に築かれました。 16世紀前半には、上総武田氏の拠点の一つだったと考えられています。 永正4年 (1507年)の佐貫鶴峰八幡神社再興棟札には、大旦那として武田氏の名が書かれていることからも、武田氏と佐貫の関係が指摘されています。 その後、武田氏の内紛に介入した里見氏と小田原北条氏の争いがおき、 佐貫城も両勢力の戦いの舞台になり ました。 天文14年 (1545年)頃には里見氏の城となり、当主である義堯が居城としていましたが、 北条氏が佐貫城 を囲み、 里見方は北条氏が囲みを解くまでの1ヶ月近くを籠城戦で凌いだといいます。 しかし、天文年間の終わり 頃にはついに佐貫城が落とされ、 義堯は久留里城に移ったとされています。 永禄6年(1563年)には北条氏が擁立した古河公方足利義氏が佐貫城に入っていることからも、北条氏がいか に佐貫城を重要視していたかがわかります。 この後、 里見氏と北条氏が江戸湾を挟んで佐貫城を巡り熾烈な戦い を繰り広げます。その過程で佐貫城は再び里見氏の城となり、 里見氏の本拠が岡本城 (南房総市) に移ると佐貫 城は里見方の一拠点として存続していきました。 天正18年(1590年)の小田原合戦以降、 関東に徳川家康が入封すると、 徳川譜代の内藤家長が入城しました。 その後は松平氏の時代や天領になった時期を経て、 阿部氏が入ります。 宝永7年(1710年)に入封した阿部氏は、藩校の誠道館の設立や、 砲台を築いて海防強化に努めました。 そして、 多くの幕府関係の儀式に参加し、譜代大名として明治まで存続しました。 ⬛︎ 御城印デザインのご説明 上総武田氏、 里見氏、 小田原北条氏、足利義氏、 そして、 近世初頭には徳川譜代の内藤氏が入るなど、 多彩な歴史に彩られた佐貫城。 それらの歴史がいかに佐貫城が重要だったかを物語っています。 御城印には武 田氏 「四つ菱」、 足利氏と里見氏の「二つ引両」、 北条氏の家紋 「三つ鱗」をそれぞれ配置しました。 佐貫城は天正18年(1590年) に内藤氏が入って以来、 松平氏、 阿部氏と城主が変わり、 現在残る遺構は近 世に改修されたものですが、 中世の佐貫城が基本的には踏襲されたと考えられます。本丸から二の丸へ続く丘陵 が近世では佐貫城の中心だったと思われますが、 中世においてもこのエリアが城の中心だったと思われます。中世 から近世へと上書きされながら存続した佐貫城の御城印は江戸時代に描かれた絵図をモチーフにするとともに、 佐 貫藩を再立藩し、江戸時代を通して存続させた阿部氏の家紋 丸に違い鷹の羽」をデザインしました。
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25 成東城
¥400
⬛︎ 成東城のご説明 千葉県山武市 成東城は九十九里平野を臨む標高45mほどの台地に築かれました。 現在は城の中心部が成東城 跡公園として整備されています。 作田川が近くを流れ、 現在はその支流が成東城の裾野を囲むように流れています。 成東城は台地 全体を利用して築かれていて、現地を歩くとその規模を感じることができます。さらに、台地東南にあたる 九十九里海岸方面には遮る丘陵が全くなく、 成東城が水上交通の要であったことが見て取れます。 成東城は鎌倉時代以降、この地を治めていた印東氏が築城したとも伝わりますが、今に残る遺構は 16世紀以降のものと考えられています。 1450 年代に印東氏がこの地を支配しなくなった後は本佐倉城を拠点にした馬加千葉氏の勢力下に なり、 千葉勝胤の子、 胤定 (鳴戸八郎)が城主として成東地域を治めたといいます。 永禄12年(1569年)頃には正木氏による下総侵攻があり、 成東城もその混乱に巻き込まれたと思われ、そういった状況下で改修されながら機能したと思われます。 台地全体を利用して築かれた成東城は、本佐倉城や土気城などといった両総の主要城郭に匹敵する規模であることからも、この地にこれほどの城を築ける勢力がいたことを物語る城といえます。 天正18年(1590年)に豊臣秀吉が小田原城の北条氏を攻めると、 成東千葉氏当主の将胤は北条方として戦い、討ち死にしました。 小田原北条氏が滅亡し、 徳川家康が関東に入封すると成東には家康配下の石川康通や青山忠 成などが配属されましたが、 元和6年(1620年)に廃城となりました。 ⬛︎御城印デザインのご説明 宅地化が進み、一部は破壊されているものの、 成東城には遺構が良好に残っています。 土塁、 空堀、 虎口、 切岸などの防御が施され、堅固な城であったことがわかります。 主郭は三方に土塁を巡らし、 取り囲む空堀も折れを伴い、防御制を高めていることが見て取れます。 戦国期の姿を色濃く残す成東城の御城印には、台地全体を城郭化し広大な城域を誇る成東城の地形がわかる地図と縄張図をモチーフにしました。 鎌倉時代からこの地を領有していた千葉氏の家紋 「月星」 と 「九曜」、 そして、 享徳の乱を契機とし、 主家を滅ばし千葉氏当主となった馬加千葉氏の家紋 「月星 (星が真上)」 をデザインしました。
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24 万喜城
¥400
⬛︎ 万喜 (まんぎ) 城のご説明 千葉県いすみ市 万喜城は夷隅川中流域の丘陵を利用して築かれ、 城山を取り巻くように蛇行して流れる夷隅川を天然の水堀とし ています。 城郭を築くのに最適な丘陵地に占地し、 千葉県内でも有数の規模を誇っています。 城内には、 堀や切岸、 堀切、 曲輪などの遺構が良好に残ります。 万喜城は上総土岐氏の居城として有名ですが、 土岐氏が入る以前に長南武田氏が居城としていたことが西麓の 上行寺の過去帳からわかっています。 南北朝以降、関東管領上杉氏の支配下にあった房総半島に、 鎌倉公方が送り込んだのが武田氏や里見氏で す。その武田氏の衰退とともに土岐氏が万喜城周辺に進出していったと思われます。 土岐氏が上総国に入った経緯は、 不明点が多くまだよくわかっていません。 土岐氏は夷隅川沿いにたくさんの支城を築き水運を利用し、勢力を伸ばし、 万喜城を拡張整備していったのでしょう。 城下町も形成され、 主郭東側の裾野から夷隅川までの間の平坦部が城下の中心にあたります。 土岐氏当主の 屋敷や家臣の屋敷などが置かれたと考えられていて、「内宿」という地名や船着き場の跡と思われる場所が今も残ります。 当初は里見方だった土岐氏ですが、 第二次国府台合戦 (1564年)で里見氏が小田原北条氏に負けると、 北条 氏に属します。 そのため、たびたび里見氏や正木氏に攻められました。 万喜城の西方、数百mの距離にある権現城は、 天正3年(1575年)に小田喜城(現在の大多喜城) の正木憲時が築いた万喜城を攻めるための陣城です。 この陣城を含め、 万喜城は房総の歴史を語る上でとても貴重な城といえます。 天正18年(1590年) に北条氏が滅びると土岐氏も同じ運命をたどりました。 そして、 徳川家康の関東入部に伴い、本多忠勝が万喜城に入城。その後、 忠勝はまもなく大多喜城に移ったため、 万喜城は廃城となりました。 ⬛︎御城印デザインのご説明 御城印には万喜城に入ったと考えられる武田氏の家紋 「四つ菱」 と、 土岐氏の家紋 「水色桔梗」をデザインしました。 そして、 土岐氏の当主が代々好んで絵を描いたとされる 「土岐の鷹」をモチーフにしました。 万喜城には、「マス台」 と呼ばれる大手を守る高さ 5mの櫓台があるなど、とても堅固な造りをしていました。御城 印には堅固で大規模な万喜城のジオラマをデザインしました。このジオラマは、いすみ市郷土資料館に展示されています。 なお、 万喜城は万木城跡公園として整備されていて、 「マス台」には櫓を模した展望台が建っており、 太平洋を望むことができます。
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23 小浜城
¥400
⬛︎ 小浜 (こばま) 城のご説明 千葉県いすみ市 小浜城は太平洋に向かって突き出した八幡岬に築かれました。 現在、 小浜八幡神社が鎮 座している平場から海に向かって曲輪が連なり、 その先端が主郭だったと考えられます。 城山は海を臨む断崖絶壁の要害になっていて、小さいながらも重要な海上の拠点として 機能していたと考えられます。 麓には湊もあり、 西南の湾は軍船の船繋ぎ場と思われ、水 軍拠点としての小浜城の姿が浮かび上がってきます。 小浜城の城下にかつての夷隅川の河口があったといい、 水運の要である夷隅川を押さえ、万喜城、 小田喜城 (現在の大多喜城)と繋がるまさに水路の玄関口といえます。 小浜城の詳細は不明ですが、 万喜城の支城と思われ、 土岐氏の家臣鑓田美濃守勝定が築 いたとも伝わります。 鍵田氏が合戦に赴いて城を留守にしている間に、城は正木氏に奪わ れ、またそれを鑓田氏が取り返したとの伝承も残ります。 詳細は不明ながらも、この小浜城を取り合う勢力がいて、奪い合いをする価値のある城だったということがわかる逸話といえます。 天正18年(1590年) に徳川家康の関東入部に伴い、 上総国に入った本多忠勝に小浜城も接 収され、廃城になりました。 ⬛︎御城印デザインのご説明 万喜城の支城であったと思われる小浜城の御城印には、 土岐氏の家紋「水色桔梗」を配置し、 断崖絶壁の城山の遠景をモチーフにするとともに、湊に停留する舟を浮かべました。 さらに、小浜城が面していた太平洋の荒波を描きました。 いすみ市は、「波の伊八」の異名を 取る彫師武志伊八郎信由ゆかりの地でもあり、その伊八が彫った波をイメージして御城印をデザイ ンしました。
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22 大野城
¥400
⬛︎ 大野城のご説明 千葉県いすみ市 大野城は夷隅川中流域の丘陵先端部に築かれ、北は夷隅川、東は大野川、西と南は谷津に囲まれた 天然の要害です。 隣接する光福寺が上総狩野氏ゆかりの寺院であることからも、 大野城は15世紀には狩野氏の居城だったとされています。 狩野氏は伊豆国狩野荘 (伊豆市) を発祥とする一族です。 伊豆国守護であり、南北朝時代以降、上総 国を支配下に置いていた上杉氏との関係から狩野氏も上総国に入ったと考えられています。 鎌倉公方が房総 半島に送り込んだ武田氏、 里見氏らに対抗するためと推察できます。 しかし、発掘調査によると、 大野城は狩野氏がいた時代より後の16世紀後半まで使用されていたことがわかっ ています。大野地域は小田喜城(現在の大多喜城)の正木氏と万喜城の土岐氏に挟まれていて、そのどちら かの勢力が大野城を支城としていたと思われます。 戦国時代末期には、この地域は小田喜正木氏の勢力下にあったと思われ、 小田喜城の支城として使われていたと考えられます。 現在、八幡神社が鎮座する場所は、「要害」とよばれ、 主郭とされる区画の鬼門に当たり、往時の居館の姿が偲ばれます。 大野城は大規模な破城の跡が調査で検出されていて、天正18年(1590年)に徳川家康の関東入部に 伴い、上総国に入ってきた本多忠勝が万喜城から大多喜城に移るときに破城されたものと考えられています。 ⬛︎御城印デザインのご説明 大野城は戦国期には、正木氏の小田喜城と土岐氏の万喜城の境目の城として重要な役目を担ってい たと思われます。その大野城の御城印には、 夷隅川などの河川に囲まれ、 要害となっている地形がわかる 地図をデザインしました。 そして、正木氏の家紋 「三引き両」と土岐氏の家紋「水色桔梗」 を配置しました。 さらに大野城の築かれた大野の地は狩野派の祖である狩野正信生誕地ともいわれています。真偽は定 かでありませんが、 狩野氏ゆかりの地であることから御城印は狩野派の山水画をイメージし、 大野城が築かれた夷隅川沿いの美しい景色を描きました。
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21 上総鶴舞城
¥400
⬛︎ 鶴舞城のご説明 千葉県市原市にある鶴舞城は養老川の支流である平蔵川の 右岸の台地上に位置します。 この辺りには縄文土器が出土してい る鶴舞遺跡もあり、古代からの集落があったことが確認されていま す。 浜松城6万石の城主だった井上正直公が、 明治元年 (1868年) の徳川家移封に伴い、鶴舞へ転封となりました。鶴が 羽を広げているような地形をしているため、この地は正直公自身に 「より、「鶴舞」と名付けられました。 その際、 井上家が新しい領地 として開発したのが現在の鶴舞小学校を中心とするエリアです。明 治3年には藩庁、 知事邸宅、家臣屋敷などが完成し、城下町 が形成されました。 そのため、 「最後の城下町」の異名をとってい ます。 城下町には武家屋敷の区画やそれに付する土塁などが残り、 歴史的価値が極めて高いと思われます。 しかしながら、明治4年 に廃藩置県を迎えたため、城は完成せずに藩庁として機能してい くことになりました。鶴舞小学校付近に残る井戸や、 水堀などの遺 構から当時を偲ぶことができます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 「日本最後の城下町」 である上総鶴舞城御城印は、シンボルで ある「鶴」をモチーフにし、 井上家の家紋「鷹の羽」を配置しました。 旧鶴舞高校の校章もモチーフとしてデザインし、鶴 舞城御城印が地元の方の地域に対する誇りにも繋 がり、地域活性の一助になるように思いを込めました。
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20 小見川城
¥400
⬛︎ 小見川(おみがわ) 城のご説明 千葉県香取市 小見川城は香取の海に突き出した半島状の標高40mほどの台地の上に築かれました。 現在、城跡は小見川城山公園になっていて、部分的ではあるものの、戦国期の土塁や空堀が良好に残ります。 建久年間(1190年~1199年) に千葉一族である粟飯原朝秀によって築かれたという伝承がありますが、 築城に関する詳細は不明です。 現在残る遺構は戦国期のものであり、香取の海と直結する水運の要衝のため常に地域の要として機能していたと考えられ、代々、 粟飯原氏が居城としました。 永禄3年(1561年) 上杉謙信(長尾景虎)の関東出陣に呼応し、 正木時忠が下総国に侵出、小見川城も攻撃を受けました。 そのような戦国期の状況を経て、 小田原北条氏がこの地域にも侵出してくると、主筋の千葉氏とともに北条氏に属しました。 天正18年(1590年) 豊臣秀吉による小田原攻めの際には、当主俊胤は主君千葉重胤とともに小田 原城へ駆けつけ豊臣軍と戦いました。 しかし、 小田原城は落ち、それとともに小見川城も落城しました。 ⬛︎御城印デザインのご説明 千葉一族である粟飯原氏の小見川城の御城印には、千葉宗家の家紋 「月星」、そして千葉一族の家紋「九曜」、さらには粟飯原氏の家紋「三本竹」 を配置しました。 小田原北条氏が豊臣秀吉に攻められ小田原城が落ちると、徳川家康が関東に入ってきます。そのときに徳川配下の武将たちが同じく関東に配属されました。 粟飯原氏は小田原合戦での敗北後、 家康の子信吉に仕え佐倉に入り、 粟飯原氏の後に、 小見川に 入封したのが松平家忠です。 家忠は忍城に入った後、 小見川に移封され、 慶長5年(1600年) 関ヶ原 の戦いの前哨戦である伏見城の戦いに出陣し命を落としました。 その後、土井利勝などの入封や一時の廃藩を経るも、小見川藩は藩として明治まで存続しました。
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19 森山城
¥400
⬛︎ 森山城のご説明 千葉県香取市 森山城は中世には「香取の海」 と呼ばれた広大な内海に面する台地の上に位置します。 標高50mほ どで、西側と南側は低湿地の水田となっている天然の要害を利用して築かれた戦国時代の城郭です。 このあたりの地域は、鎌倉時代から千葉一族「東(とう)氏」の本拠地で、 森山城の東側に隣接して いる須賀山城 (東庄町) は東氏が築いた城と伝わります。 東氏が美濃国(現在の岐阜県郡上八幡市)に移ると、この地は東氏の庶流である海上 (うなかみ) 氏の統治となりました。 千葉宗家当主昌胤の子の胤富は、当初、 海上氏の養子に入り森山城の城主 となりました。 しかし、兄の親胤が家臣に殺されると、本家に戻って当主の座を継ぎ、 本佐倉城 (酒々 井町)に移りました。 胤富は本佐倉城に行った後も、常陸国との境に当たり、 千葉氏領国の北境の城 である森山城を重要視し、 一族の有力者を森山城の城主に据え拡張整備しました。 千葉氏は小田原北条氏に属しており、豊臣秀吉による天正18年(1590年) の小田原攻めの際には、 当主重胤が小田原城で戦うも落城。 それにより、 森山城も戦国時代の城としての役目を終えたと思 われます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 千葉宗家当主胤富が当主の座につくまでの居城とし、 その後も当城の重要性を感じ拡張整 備しながら重要拠点とした森山城の御城印には、 千葉氏の家紋 「月星」 を配置しました。 森山城の当時の様子を伝える貴重な「原文書」 とよばれる史料があります。 これは、 福井藩 士であった原氏に伝わった文書です。 原氏は千葉氏の一族であり、さらにその分家が森山城 主として城を任されていました。 その原氏に伝わる文書が 「原文書」です。 内容は領内の統治 に関わる指示が中心で、軍事、徴税、儀礼など多岐にわたっています。 その貴重な文書に書 かれた胤富の花押と、 胤富のものと思われる鶴の黒印をモチーフにしました。 そして、物資の流通まで管理できるほど水運掌握のための重要拠点であり、後に小田原北 条氏の支城として拡張整備された森山城の縄張図をデザインしました。 現地には、土塁や空堀、 馬出などの遺構が良好に残っています。