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26 佐貫城

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⬛︎ 佐貫城のご説明 千葉県富津市
佐貫城は染川とその支流の北上川に囲まれた丘陵に築かれました。 16世紀前半には、上総武田氏の拠点の一つだったと考えられています。 永正4年 (1507年)の佐貫鶴峰八幡神社再興棟札には、大旦那として武田氏の名が書かれていることからも、武田氏と佐貫の関係が指摘されています。

その後、武田氏の内紛に介入した里見氏と小田原北条氏の争いがおき、 佐貫城も両勢力の戦いの舞台になり ました。 天文14年 (1545年)頃には里見氏の城となり、当主である義堯が居城としていましたが、 北条氏が佐貫城 を囲み、 里見方は北条氏が囲みを解くまでの1ヶ月近くを籠城戦で凌いだといいます。 しかし、天文年間の終わり 頃にはついに佐貫城が落とされ、 義堯は久留里城に移ったとされています。

永禄6年(1563年)には北条氏が擁立した古河公方足利義氏が佐貫城に入っていることからも、北条氏がいか に佐貫城を重要視していたかがわかります。 この後、 里見氏と北条氏が江戸湾を挟んで佐貫城を巡り熾烈な戦い を繰り広げます。その過程で佐貫城は再び里見氏の城となり、 里見氏の本拠が岡本城 (南房総市) に移ると佐貫 城は里見方の一拠点として存続していきました。

天正18年(1590年)の小田原合戦以降、 関東に徳川家康が入封すると、 徳川譜代の内藤家長が入城しました。

その後は松平氏の時代や天領になった時期を経て、 阿部氏が入ります。

宝永7年(1710年)に入封した阿部氏は、藩校の誠道館の設立や、 砲台を築いて海防強化に努めました。 そして、 多くの幕府関係の儀式に参加し、譜代大名として明治まで存続しました。

⬛︎ 御城印デザインのご説明
上総武田氏、 里見氏、 小田原北条氏、足利義氏、 そして、 近世初頭には徳川譜代の内藤氏が入るなど、 多彩な歴史に彩られた佐貫城。 それらの歴史がいかに佐貫城が重要だったかを物語っています。 御城印には武 田氏 「四つ菱」、 足利氏と里見氏の「二つ引両」、 北条氏の家紋 「三つ鱗」をそれぞれ配置しました。

佐貫城は天正18年(1590年) に内藤氏が入って以来、 松平氏、 阿部氏と城主が変わり、 現在残る遺構は近 世に改修されたものですが、 中世の佐貫城が基本的には踏襲されたと考えられます。本丸から二の丸へ続く丘陵 が近世では佐貫城の中心だったと思われますが、 中世においてもこのエリアが城の中心だったと思われます。中世 から近世へと上書きされながら存続した佐貫城の御城印は江戸時代に描かれた絵図をモチーフにするとともに、 佐 貫藩を再立藩し、江戸時代を通して存続させた阿部氏の家紋 丸に違い鷹の羽」をデザインしました。

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