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36 長南城

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⬛︎ 長南(ちょうなん) 城のご説明 千葉県長生郡長南町
長南城は長南川に沿うように形成された市街地の東側丘陵に築かれました。 長南城が築かれた 「長南」は、 長柄郡の南部分にあたる、もしくは長柄郡の南方の場所との語源を持ち、 上総国の山間部にあたります。 周辺 の丘陵は痩せ尾根となっていて、 長南城はそれらの丘陵部や谷を取り込むように城郭化され、 約1km四方の 範囲に城郭遺構が認められる千葉県を代表する大規模城郭といえます。妙見社~太鼓森の丘陵には造成さ れた平坦面がみられ、 また、 長久寺周辺には堀切、 切岸、 腰曲輪などのまとまった城郭遺構が認められます。 長南城の築城年代や築城主などの詳細は不明ですが、 長南の地は上総平氏の流れである長南氏の支配を 経て、上総武田氏の領するところとなりました。 かつての長南氏の城館がいずれにあったかは不明ですが、 武田氏がこの地に入ってきた後は長久寺から太鼓森に掛けての丘陵に長南城を築城もしくは整備したと思 われます。 武田氏が守護を務めていた甲斐国は上杉禅秀の乱(1416) 以降、混乱状態にありましたが、永享の乱 (1438)の頃に武田信重が守護として復権し、弟の信長は鎌倉公方足利成氏に仕え成氏の側近となりました。 そして、享徳の乱 (1454) を契機に信長は成氏の命を受けて上総国に入部し、敵対する関東管領上杉陣営 との戦いの拠点とするため、 長南城と真里谷城を築いたと伝わります。 そして、 上総武田氏は真里谷城 (木 更津市) を拠点とする真里谷武田氏と、 長南城を拠点とする長南武田氏に分かれていきました。 長南武田氏 は真里谷武田氏に比べて良質な文献が少ないため、不明なことが多く、確実に実在が認められているのは 最後の当主豊信だけです。 豊信はその手腕を発揮し、16世紀の中頃には長南と池和田 (市原) までを領国化 し、衰退した真里谷武田氏にかわって戦国大名となりました。 しかし、最後は小田原北条氏に属し、小田原 落城の際は北条氏と運命を共にし、 豊信は自害したと伝わりますが、地方に逃れたとも伝わっています。 その 後、徳川家康の関東入部に伴い、本多忠勝が天正18年(1590) 6月~7月の間、 長南城に滞在したとされています。

⬛︎ 御城印デザインのご説明
周辺の丘陵や宿などを取り込んで、 長南武田氏の大城郭となった長南城の御城印には、その規模が分かる 地図をモチーフにしました。 長南城の最高所は標高約80mの 「太鼓森」 と呼ばれる丘陵で、 太鼓森には平坦に 造成された曲輪が点在し、現在は妙見社が建っています。 太鼓森はその名の通り、 有事の際には合図、伝令の 太鼓が打ち鳴らされたと伝わることから、御城印には太鼓を描き、当時をイメージしました。 長南武田氏の最 後の当主豊信は里見氏と北条氏の間を巧みに生きた房総を代表する戦国武将です。 御城印には豊信の肖像画 (長南町郷土資料館提供) と花押をデザインするとともに、武田氏の家紋 「四つ菱」 を配置しました。

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