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18 八日市場城
¥400
⬛︎ 八日市場城のご説明 千葉県匝瑳(そうさ) 市 八日市場城はJR八日市場駅の北側、 現在は天神山公園となって いる丘陵上に築かれました。台地周囲は断崖になっており、天然の 要害となっています。 南方約8kmの位置に九十九里浜が広がる水 運の要衝で、当時は今よりも海岸線が迫っていたと推測でき、城山 周辺は低湿地帯だったと思われます。 築城年代等の詳細は定かではありませんが、 千葉氏家臣の押田(お しだ)氏の居城と考えられています。 調査によると複数の堀が検出 され、16世紀代の在地の土器等の遺物が出土していることから、 八 日市場城は押田氏の勢力拡大に伴い取り立てられた城と思われま す。 城を整備し、 そして、 押田氏ゆかりの寺院である福善寺が城下 にあり、八日市場の宿が形成されていったと考えられます。 調査により大規模な改修がされたこともわかっており、千葉氏が 小田原北条氏に属す戦国時代末期の状況の中、 千葉氏家臣である押 田氏の城も軍事的緊張下の中で改修されたと推察できます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 八日市場城城主の押田氏はもとは源氏の出自と伝わり、 鎌倉 時代に三浦一族が滅びた宝治合戦 (1247年) 三浦方について一 族が討ち死にしたといいます。 その子孫が千葉氏に匿われたこ とから千葉氏の重臣となり、 押田氏を名乗ったとされます。 その後、戦国時代になると、 主君千葉輔胤の娘を妻にもらい、 千葉一族の家紋である九曜を模した 「丸九曜」を家紋としました。 御城印にはその「丸九曜」ともう一つの押田氏の家紋である「五 「三の桐」を配置しました。 城山には櫓台の遺構が残り、 南方向には九十九 里浜の海が見えます。 水陸交通の要衝で、眼下に は街道が通り、城下に形成された宿も見えたこと でしょう。 御城印には現地に立つ櫓のような展望 台をモチーフにし周辺の地図をデザインしました。
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17 興津城
¥400
⬛︎ 興津城のご説明 千葉県勝浦市 興津城は別名奥津城ともいい、 興津湊から北側の丘陵上に築かれま した。標高120mを超え、湊から眺めるとかなり屹立した山城に見えますが、 そのまま北側の平地に続く立地となっています。 城山の南側には湊に続く 道が通り、北側の尾根上には主要街道が通り、 興津城はその抑えの役 目を担っていたものと考えられます。 鎌倉時代からこの地にゆかりのあった佐久間氏が城を築いたのが始まり とされ、詳細は不明ですが、 その後、戦国期になると上総武田氏や 木氏が城として取り立てたとされます。 現在は戦国時代の遺構が良好に 残ります。 天正8年(1580年) に正木憲時が里見義頼に対して反乱を起こすと、 興津城は里見軍に攻められました。このとき里見軍に攻められた興津城は 周辺を攻撃され、わずか城郭部分のみがかろうじて落とされずに残る危 機に追い込まれました。 妙本寺に残る文書 「里見義頼書状」によると、 「興 津巣城計 (おきつすじろばかり)」と書かれていて、その緊迫した状況を生々 しく伝えてくれます。 その後の詳細は不明ですが小田喜正木氏が滅ぶと、 勝浦正木氏の 城として機能したと思われます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 丘陵上の南側が主郭とされ、 方形の区画となっています。 土塁や空 堀、櫓台も良好に残っていて晴れた日には興津湊のある大海原を望む ことができる興津城の御城印は、 縄張図と地形図をモチーフにしました。 主家である里見氏に反旗を翻したことにより、 正木氏 は家中で分裂。 これにより、 房総半島の戦国史に多大 な影響を及ぼしました。 御城印には正木氏の家紋「三 つ引両」をデザインしました。
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16 増尾城
¥400
⬛︎ 増尾城のご説明 千葉県柏市 増尾城は増尾集落から北東に突き出した半島状の台地の上に築かれました。 南側崖下には手賀 沼に流れ込む大津川の支流が流れ、 城山のまわりは谷と険しい崖に囲まれ、 天然の要害となっています。 築城時期や築城主は不明ですが、土塁や空堀からなる塁壁に複数の横矢が掛けられていることなど から戦国期の城とみられています。 増尾城が小金領にあることからも、16世紀に築かれた小金城と関連 する城と推測されており、 東葛飾郡誌には小金城主高城氏の家臣平川若狭守が城主だったと書かれ ています。 周辺には大津川に沿って、 幸谷城、 戸張城、 佐津間城などの中世城館が築かれていて、これら の城とともに手賀沼へと続く水上交通の要衝だったことが想像できます。 近世に遡ることができる街道も城 下で交差しており、 陸上交通の要衝であったこともうかがえます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 遺構が良好に残り、南西隅に大きな櫓台が残る増尾城の縄張図をモチーフにしました。 増尾城には 虎口を見張る櫓があったと推測できますが、櫓台からは南方向に位置する幸谷城がよく見え、 幸谷城に も増尾城を臨む位置に物見台が残っています。 そこで、増尾城と幸谷城の御城印には同じ櫓をデザイ ンするとともに、両城が築かれた小丘も御城印に描き、お互いに連携していた両城をイメージしました。 増尾城眼下を流れる河川は郡の境にあたります。 増尾城の南側一帯は鎌倉時代から南北朝時代 には相馬御厨という伊勢神宮の荘園でした。 相馬御厨は千葉一族の相馬氏が領地としており、 増尾 城付近には今でも千葉氏系の氏族がいたと想像できる一族の信仰のシンボルである妙見さまが祀られて いるため、御城印には一族の家紋 「九曜」 を配置しました。 さらに相馬氏ゆかりの地であることから相 馬氏の家紋 「繋ぎ馬」をデザインしました。 増尾城は現在、「増尾城址公園」 として整備されています。
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15 幸谷城
¥400
⬛︎ 幸谷(こうや) 城のご説明 千葉県柏市 幸谷城は 「きつね山」と呼ばれる小丘に築かれ、 城山の東側と南側には谷津がめぐっています。 今も近くまで川が入り込んでいて、城が使われていた当時も手賀沼に流れる河川を利用して機能して いたことが推測できます。 千葉一族相馬氏の居館ともいわれていましたが、近年は調査による出土物などにより、15世紀後 半に築かれ16世紀まで使われていた可能性が指摘されています。 食い違い虎口や複数に折れる土 塁や堀から、 増尾城と同じように小金城主高城氏に関連する城と想定できます。 本土寺過去帳には、文明17年(1485年)の「コウ城」での戦闘行為による討ち死者の記録があり、 「コウ城」 が幸谷城を指している可能性があることからも、 幸谷城の北方に位置する増尾城との関連 が推測でき、同時に機能していた両城の姿が浮かび上がります。 ⬛︎御城印デザインのご説明 幸谷城一帯は鎌倉時代から南北朝時代には相馬御厨という伊勢神宮の荘園でした。 千葉一 族の相馬氏が領地としており、 幸谷城は相馬氏の居館だとする伝承も残っています。 さらに千葉氏 系の氏族がいたと想像できる一族の信仰のシンボルである妙見さまが、 幸谷城付近には今でも祀ら れているため、御城印には千葉一族の家紋 「九曜」を配置しました。 さらに相馬氏ゆかりの地であ ることから相馬氏の家紋 「繋ぎ馬」をデザインしました。 幸谷城の北東には高まりがあり、物見台と伝わっています。 物見台からは北方向に位置する増尾 城がよく見え、増尾城側にも幸谷城を臨む位置に櫓台が残っています。 そのため、 幸谷城と増尾城 の御城印には同じ櫓をデザインするとともに、 幸谷城と増尾城が築かれた小丘を描き、 お互いに連 携していた両城をイメージしました。 また、調査で検出された土塁、堀、 物見台が分かるよう実測 図をモチーフにしました。
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14 松ヶ崎城
¥400
⬛︎ 松ヶ崎城のご説明 千葉県柏市 松ヶ崎城は手賀沼の最西端の台地上に築かれ、かつては城内から手賀沼(香取の海) を臨む ことができたと思われます。 松ヶ崎城が築かれた台地は、 大堀川と地金堀が分岐する箇所に当たり、 さらに手賀沼の北側には古東海道が通っていたとされ、 まさに水陸の要衝地といえます。 土塁や堀で囲まれた方形の城館跡が良好に残りますが、 文献などの記録はなく詳細は不明です。 しかし、調査により、 曲輪、土塁、 空堀、 虎口、 土橋、 物見台などが検出されていて、 土器や 陶器などの遺物からも15世紀後半から16世紀前半にかけての築城とみられています。 市内の増尾 城、 幸谷城同様に小金城主高城氏に関連する城郭の可能性が推察されていますが、 城内からは 建物跡が見つかっておらず、臨時的な用途も指摘されています。 柏市指定文化財 (史跡) に平成16年7月に指定され、所有者の理解のもと、 市民による植樹 等の整備が進められています。 ⬛︎御城印デザインのご説明 香取の海 (手賀沼) に繋がる要衝地であることが松ヶ崎城の大きなポイントであるため、御城印に は手賀沼を臨む松ヶ崎城の城山と、その眼下を流れる河川を描きました。 松ヶ崎城は駅からわずか徒歩5分程度という好立地にもかかわらず、度重なる破壊の危機を乗り 越えて、良好に整備され保存されています。 その良好に残る土塁と空堀をデザインしました。 それとあ わせて方形単郭の特徴をデザインした縄張図をモチーフにしました。 比較的小さな方形居館ですが、 虎口が3か所も認められていたり、 古墳を櫓台に転用していたりと、 中世城郭の姿を今に伝えてくれ ある貴重な史跡です。
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13 花輪城
¥400
⬛︎ 花輪城のご説明 千葉県流山市 花輪城は江戸川に沿って南に突き出る台地先端に位置します。 この台地の周辺は古くは低湿地帯だっ たと思われ、 花輪城は水運の大動脈である旧利根川水系の太日川 (現江戸川) と低湿地帯を臨む好 立地に位置していたといえます。現在は主要地方道松戸野田線が城域を縦断していて、遺構の大部 分は破壊されてしまっていますが、 花輪城址公園として先端部が整備されており、 空堀、 土橋、土塁 などの遺構を今でも確認できます。 発掘調査によると、 深さ3mの空堀と土橋が見つかっており、 土橋によって城内の曲輪を繋いでいた と思われ、少なくとも二つ以上の曲輪が連続する連郭式城郭であったことが分かっています。 さらに空堀 は小規模ながら障子堀になっていたことが確認されており、城郭として利用されていた頃の姿が発掘調 査により浮かんできます。 花輪城は築城年代などは不明ですが、 戦国期には根木内城や小金城を本拠とする高城氏の支城と して使われたと思われ、 高城氏に関係する田島氏や平本氏の名が伝わりますが詳細は定かではありませ ん。 高城氏が属した北条氏が滅びると花輪城は役目を終えたと考えられます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 花輪城廃城後、江戸時代になると主郭には西福寺が建てられました。 西福寺には琵琶首観音堂と呼ば れるお堂があり、その観音堂の基壇跡が発掘調査により検出されています。 観音堂は江戸時代のもので すが、そこに安置されていた観音菩薩立像は墨書きにより、天文8年(1539年) の造立であることが分かっ ています。 さらに発掘調査の際に、 空堀から19基の板碑が出土しました。 これらの板碑と仏像の由来は不明ですが、 花輪城の性質や役割を考える上での重要な遺物と思われるため、 御城印には観音堂の基壇が描かれて いる花輪城構造図と出土した板碑をデザインしました。
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12 前ヶ崎城
¥400
⬛︎ 前ヶ崎城のご説明 千葉県流山市 前ヶ崎城は富士川右岸に沿って北に突き出した標高20m前後の台地の上に築かれました。 現在は突 端の主郭が前ヶ崎城址公園として整備されており、土塁や空堀、 櫓台を確認することができます。 築城の経緯などは不明ですが、 本土寺過去帳には 「前崎落城打死」の記事があり、 前ヶ崎城にて戦 闘が行われたことが分かります。 ここで討ち死にを遂げたのは太田六郎と戸張彦次郎と記され、この二人 は扇谷上杉氏の家宰太田道灌の将と思われます。 文明10年 (1478年) に道灌が国府台城に陣を構え、 長尾景春に与した千葉孝胤 (のりたね) の軍と境 根原合戦で戦いますが、その前哨戦として前述の本土寺過去帳に記されたように前ヶ崎城で戦闘があっ たと推測できます。 その後も城の経緯詳細等は不明ですが、 「刑部郭」という地名が残ることから、 高城氏の属将、 田島 刑部少輔が前ヶ崎城の城主でだったのではないかなどいくつかの説が伝っています。 千葉氏の一族であ る高城氏は下総国で勢力を拡大、千葉氏の内訌を経てその後は北条氏に属し、 根木内城、 小金城 と本拠地を拡大していきました。前ヶ崎城はそれらの支城として機能したと思われます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 坂川上流域の奥まった場所に位置し、東側に富士川谷津、西側に名都借谷津、北側に八木谷津という3つの谷津が合流する地点の台地に築かれた前ヶ崎城の御城印は、その特徴のある地形をモチーフに しました。さらに前ヶ崎城の西側にある名都借城、東側にある幸田城、 中金杉城もデザインの中に描きました。 これらの支城で高城氏の本拠である根木内城や小金城の守りを固めていたと思われます。 本土寺過去帳に 「前崎落城打死」 と書かれた戦いは、太田道灌と千葉孝胤が戦った境根原合戦の前 哨戦と推測されるため、合戦となった千葉氏の家紋「九曜」 と 「月星」、 太田氏の家紋である「丸に細桔梗」 を配置しました。
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11 小金城
¥400
⬛︎小金城のご説明 千葉県松戸市 小金城は、南から北に伸びる下総台地が西の江戸川方面へ突出した地区に築かれました。 湿地帯に囲ま れた天然の要害である台地全体を城郭化し、周囲に根木内城、 前ヶ崎城などの支城を配置したと思われます。 千葉氏の本佐倉城 (酒々井町)、 原氏の臼井城 (佐倉市)に次ぐ規模を誇る小金城は、 根木内 城が手狭になった高城氏によって築かれた、との伝承もあります。しかし実際には原氏が「金(こがね)領」 支配の拠点として使ったものを高城氏が引き継いだと考えられます。 同じ台地上には城が築かれる前から 「小金宿」 が存在し、 領の名前にも「金」 が使われていることか ら宿の重要性が分かります。 小金城周辺は様々な勢力がぶつかる境界地帯であった時期もあり、領内はたびたび戦火にさらされたと 考えられます。その中で高城氏は後北条氏に属しますが、豊臣秀吉による小田原攻めの際には小金城での戦闘行為の有無は不明ながらも、後北条氏の敗北により、城としての役目を終えたと思われます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 勢力の交差する金領は何度も戦火にさらされ、永禄年間になると里見氏、 北条氏、さらに関東管領職 を得た長尾景虎 (上杉謙信) の勢力が小金城付近でぶつかるようになります。まさに小金城は境目の城 の役割を果たし、後北条勢力と反後北条勢力のせめぎあいの地となりました。 このような情勢の中、北進 する後北条勢力に対し、 関宿城の簗田氏や守谷城と敵対、 戦いが繰り広げられるようになるのです。 そのような中で書かれた千葉胤冨書状 「間宮家旧蔵文書 (豊前氏古文書 / 松戸市立博物館蔵)」 には、「敵松戸市川まであい散らし、去んぬる二六日引きく、臼井筋の郷村に放火せしめ」と書かれ 小金領内の松戸に敵 (安房の里見氏) が来襲して農作物を荒らし、原氏の本拠の村々にも焼き討ちし た状況が伝えられています。 御城印は、この書状内容をモチーフにするとともに、 下総西部最大の城域面 積を誇る小金城の築かれた台地をイメージした図柄を配置しました。
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10 根木内城
¥400
⬛︎根木内 (ねぎうち) 城のご説明 千葉県松戸市 根木内城は富士川の合流地点に突き出た台地の上に築かれました。 築城年代等の詳細は定 かではありませんが、 高城氏の主筋である原氏が支配した 「金(こがね) 領」 の拠点として機能し ていたと思われ、その後、 高城氏がその支配領域を引き継いだものと考えられています。 城の周囲には湿地が広がり、 自然の要害であったことが推測できますが、 現在は国道6号線が城 内を貫き、さらに宅地開発により西側半分は破壊されてしまいました。 しかし、 根木内歴史公園内には、 空堀や土塁が良好に残り、 当時の城の姿を偲ぶことができます。 根木内城の周辺には、 谷津を挟んで築かれた行人台城や下流の前ヶ崎城、 名都借城などの 城が築かれ、この地域が戦乱の渦中にあったことを窺い知ることができます。 古河公方と小弓公方が対立するようになると、それぞれの勢力がこれらの城をめぐり、合戦を繰り広げました。 高城氏は、そのような状況下で根木内城から小金城に本拠を移した可能性があります。 根木内城はその後も高城氏の支城として使われたと思われます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 根木内城の城下を江戸時代の水戸街道が通り、 その沿道に小金宿がありました。 根木内城は いわばプレ水戸街道の監視等の役目もあったと思われます。さらに行人台城や 小金城の台地との 関連こそが根木内城の特徴と考えられるため、御城印にはそれらの位置関係や地形が分かる地図を デザインしました。 根木内城からは近年の発掘調査により、 旧水戸街道南側から堅固な障子堀などの遺構や遺物 が発見され、 城域が考えられていたよりも南に広がっていることが分かりました。 その発掘調査の結果 を活かし、御城印には発掘された障子堀をデザインしました。
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9 高藤山城
¥400
⬛︎高藤山城のご説明 高藤山城は「高藤山城址」 として、 千葉県長生郡一宮町の町指定史跡になっています。 標高約80mの 険しい崖などの自然の地形を生かして作られた山城です。 頂上からは一宮城や勝見城など、周辺の重 要拠点を眼下に見下ろすことができ、 高藤山城がこのあたりの戦略拠点であったことが推測できます。 城下には、番細工、 軍抜台、 売場、 鐙ヶ谷など、武器製造に関係する地名が残っていて、城が機 能していたころの様子を想像することができます。 伝承では平安時代からの名族であり、鎌倉時代の雄、 上総広常の居城とも伝わりますが築城主、築 城年代、廃城年代は不明です。 広常の居館の場所は諸説ありますが、 一宮城下の玉前神社に鎧の 奉納をしたことや、 高藤山城に残る伝承などから、 一宮から高藤山にかけて、広常をはじめとする上総 氏の存在が色濃く浮かび上がってきます。 今に残る城の遺構は戦国時代以降のもので、城の麓から急な坂を登っていくと尾根を分断する堀切や 土塁が良好に残っています。 一宮に正木氏が入り、一宮城が度重なる戦乱の舞台となると、 高藤山城 もなんらかの形で要害化され、 城郭として取り立てられたと考えられます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 高藤山城の御城印は、伝承に因み上総広常をモチーフにしました。 文久2年(1862年)に一宮藩主・加納久徴(ひさあきら)が広常の功績をたたえて石碑を作りました。 その石碑は今も高藤山城の山頂で「古蹟の碑」 とよばれ地元の人に親しまれています。 城の麓には水田が広がり、 今も昔も変わらない美しい情景を思い描くことができることから、 広常の絵は水田をイメージし黄緑色にしました。 そして、平安時代から上総国を治めた名族上総氏の家紋 「九曜紋」 と、戦国時代の一宮城主正木 氏の家紋 「三つ引両」を配置しました。 正木氏は一宮に入ると、 周辺の城郭を整備し、 戦いに備えたと 思われます。
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8 一宮城
¥400
⬛︎一宮城のご説明 一宮城は「一宮城址」として、 千葉県長生郡一宮町の町指定史跡になっています。 築城主、 築城時期など は不明ですが、 水陸の要衝地にある一宮城は戦国期には何度も戦乱の舞台となり、今に残る禁制などの史 料がその歴史を伝えてくれます。 永禄7年(1564年)、 里見氏の配下で、 一宮城主だった一宮正木氏を北条側についた勝浦正木氏が攻め 滅ぼしました。 そして、 勝浦正木氏が一宮城に入りますが、その後も里見氏と北条氏の争いの中で城主が変 わり、そのたびに一宮城は戦火にさらされました。 一宮城は2度の発掘調査が行われており、 庭園遺構や大名などの高貴な位に使用が限られる箸置き台 「耳 かわらけ」 が出土しており、 一宮城が外房の拠点クラスの城郭であったことが推測できます。 天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際は、里見氏の家臣鶴見甲斐守が城主だったことが 史料に見え、合戦後は関東に移封となった徳川家康家臣の本多忠勝が大多喜城に入りこの地域を統括し たため、 一宮城は役目を終え、 廃城となりました。 その後、 江戸時代中期に伊勢八田藩の領地となり、文 政9年 (1826年)には江戸湾警備の面から八田藩が陣屋を築き、一宮藩として明治の世を迎えることとなります。 ⬛︎御城印デザインのご説明 上総国一宮玉前神社は一宮城下に鎮座しており、その玉前神社の祭神 「玉依姫」 が上陸したと伝わる釣ヶ崎海 岸の鳥居を御城印にデザインしました。一宮城にとって、いつの時代も玉前神社が聖地として存在していたと推測 でき、その祭神である 「玉依姫」 が上陸した釣ヶ崎海岸もまた聖地といえます。 そして、平安時代から上総国を治めた名族上総氏と戦国時代の城主正木氏、そして里見氏の家紋を配置しました。 一宮エリアは平安時代から鎌倉時代にかけては名族上総氏の領地であり、 上総広常が源頼朝と源氏の繁栄を 祈り、鎧を奉納したと伝わるのがここ玉前神社なのです。 広常奉納の鎧は現存していませんが、この故事に倣い、 一宮藩主加納久徴(ひさあきら)は玉前神社に鎧を寄進しました。 その鎧が現在、 町指定文化財になっており、 これを御城印にデザインしています。
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7 師戸城
¥400
⬛︎師戸城のご説明 千葉県印西市 師戸城は千葉県印西市にあり、印旛沼を臨む水上交通の要の城です。 印旛沼に突き出た台 地を利用して築かれました。 印旛沼を挟んだ南方1.5kmの位置に臼井城があり、この両城は 連携して機能したと考えられます。 師戸城は鎌倉時代に千葉氏の系統である師戸四郎が築城したとも言われますが、 築城年代や 築城主は不明です。 今に残る城の姿は、戦国期の軍事的緊張の中で築かれたものと推察でき、 臼井城で合戦が行われた際は師戸城が駐屯や兵站の役割を果たしたと思われます。 台地の北側の付け根には東側から谷が入り込み、 その谷が長方形に整地されていることから、こ の辺りが居館跡、さらにその南側に城下や湊があったと考えられています。 鎌倉時代からの名族千葉氏がこの地を治め、一族の内紛などを経て、 同族の原氏が居城としまた可能性が高いです。 臼井城は、 徳川家康の関東移封に伴い酒井家次が慶長9年(1604年) まで在城し、まもなく、 廃城になりました。 それに伴い、 師戸城も廃城になったと考えられています。 ⬛︎御城印デザインのご説明 臼井城とともに印旛沼の水上交通の要衝であり、さらに臼井城と連携して機能したと推測される 師戸城。まさに師戸城と臼井城は印旛沼を挟んで両立する地形が鍵になるため、御城印には、 印旛沼と師戸城、 臼井城が築かれた台地をデザインしました。 さらに城山をモチーフにし、小舟を描き、 水上交通の重要地点だった印旛沼と師戸城をイメージしました。 家紋は古くからこの地を治めていた千葉氏の「九曜紋」を配置しました。
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6 宿内砦
¥400
⬛︎宿内砦のご説明 宿内砦は臼井城 (千葉県佐倉市臼井) を守る支城として、 臼井台地の東南外縁部に 築かれました。 他にも稲荷台砦、 洲崎砦、 仲台砦、 手久里 (たぐり) 砦が存在し、これ らの支城群で臼井城外郭の守りを固めていたと考えられています。5つとも1辺が100mを 超える規模だったとされ、 臼井城の台地を守るよう見事に配置されていました。 このうち宿 内砦は唯一、堀、 土塁、 虎口などの城郭遺構が良好に残っています。 臼井城は下総の重要な軍事拠点であり、文明11年(1479年) 太田道灌、 永禄9年 (1566年) に上杉謙信に攻められるなど、大きな合戦が繰り広げられました。 その過程の 中で、宿内砦をはじめとする支城群が整備されていったと考えられています。 宿内砦は、開発による破壊の危機にさらされましたが、 地元の方々らの保存運動により、 現在も戦国期の素晴らしい遺構を見ることができます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 遺構が良好に残る宿内砦の虎口の土塁をデザインし、戦国期の軍事的緊張の中で築かれた城郭の姿を描きました。 さらに、成田名所図絵に描かれた上杉謙信の臼井城攻めの場面から、 出撃する兵士と度 重なる合戦の舞台になった臼井城とその支城群をイメージし、モチーフにしました。 家紋は古くからこの地を治めていた千葉一族臼井氏の 「九曜紋」 と、 里見氏に勝利した国 府台合戦以降、 千葉一族を配下においた北条氏の「三つ鱗」 を配置しました。
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5 謙信一夜城
¥400
⬛︎謙信一夜城のご説明 千葉県佐倉市王子台の台地に築かれた謙信一夜城は、上杉謙信が臼井城攻めの際に築いた陣城と伝わ ります。今は公園となっていますが、北方に臼井城を臨む高台に位置します。 群雄割拠の戦国時代、 武田信玄、 北条氏康、上杉謙信という勢力が争う中で、 謙信も度々関東に進軍しました。 永禄8年(1565年)の関東遠征の際には、北条氏の圧迫を受けていた里見氏も上杉軍に加わり北条氏に対 抗しました。 上杉軍は常陸国小田城などを攻め、永禄9年(1566年)には、臼井城に攻め寄せました。 史 料によると、 臼井城の 「実城堀一重」 まで上杉軍が攻め寄せたものの、北条氏配下の原胤貞がこれを撃退 したとされます。 これにより上杉軍は撤退を余儀なくされ、 謙信の関東への直接介入は不可能となりました。 開発に伴う発掘調査によると、 城内の曲輪は100m×70mの方形で、 周囲には空堀をめぐらせ、 南西には 虎口、 土橋が架けられていたといいます。 南東には食い違いの堀があり、ここにも虎口があった可能性が高いと考えられています。 調査では中世の遺物は検出されず、 城郭遺構を見ても最小限の土木工事と推測される点から臨時的な 用途が推測でき、 伝承通りに上杉謙信の臼井城攻めの陣城という可能性も十分に考えられ、遺構は何も残 らずとも貴重な史跡と言えます。 ⬛︎御城印デザインのご説明 御城印は上杉謙信の陣城と伝わる伝承に因み、春日山城の上杉謙信の銅像と、 成田名所図絵に描かれた上 杉謙信の臼井城攻めの場面から、 臼井城の城兵に反撃され逃げていく上杉軍をイメージし、モチーフにしました。 家紋は古くから臼井の地を治めていた千葉氏の「九曜紋」、 国府台合戦以降、 千葉氏を配下に置いた北条 氏の「三つ鱗」、上杉氏の「竹に雀」、さらに上杉方として戦った里見氏の「二つ引両」を配置しました。
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4 飯野陣屋
¥400
⬛︎飯野陣屋のご説明 飯野陣屋 (千葉県富津市)は保科正貞によって築かれた上総国飯野藩の陣屋です。 慶安元年(1648) に正貞が加増を受け、1万7000石の大名になったため陣屋を構えました。 保科氏は甲斐武田氏、次 いで徳川氏に仕え、譜代大名となりました。 そして、徳川秀忠の4男を養子に迎え、その子が高 遠藩主保科正之となります。 その後、 正之は会津に移りますが、 飯野藩は会津保科家を本家とし、 幕末まで分家として存続、 陣屋も維持されました。 慶応2年(1866)、藩主正益(まさあり)は幕府若年寄になり、第二次長州戦争を指揮しましたが、 明治維新を迎えるに至り、版籍奉還を受けて一時的に飯野藩は飯野県の県庁となるも、明治4年 11月に廃庁となりました。 飯野陣屋は富津古墳群の中に築かれており、周囲にはいくつかの古墳が存在します。 さらに陣屋 内には前方後円墳である三条塚古墳が残っていて、その麓には藩校 「明親館」が置かれていました。 陣屋の構造は城郭構えになっていて、 横矢が掛かる張り出しを設け、 周囲には土塁と水堀を巡ら せています。本丸から三の丸の広さは東西430m、南北290mに及び、今に残る見事な水堀は 「飯 「野陣屋濠跡」 として、 千葉県の指定史跡になっています。 ⬛︎御城印デザインのご説明 飯野陣屋は、 敦賀陣屋 (越前国)、 徳山陣屋 (周防国)とともに「日本三陣屋」に数えられています。 今に残る見事な水堀は、まさに飯野陣屋のシンボルであるため、 飯野陣屋絵図の水堀を強調して 浮かび上がらせ、御城印デザインのモチーフにしました。 さらに保科氏の家紋である 「並九曜」 を配置しました。 明治維新後、 そのまま飯野の地に残り帰農 した家臣も多く、いまでも城下町の趣が残っています。
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3 稲村城
¥400
⬛︎稲村城のご説明 稲村城は、館山市稲地区にある標高64メートルほどの丘陵に占地 している中世戦国期の城郭です。北を流れる滝川を自然の堀とし、東、 西、南を廻る丘陵地に外郭の役目を担わせた東西約2キロメートル、 南北約1.5キロメートルにわたる城域を誇るお城です。 主郭部の丘陵 は、安房の国府が置かれていた府中を見下ろす位置にあることから、 前期里見氏による安房支配を確立した重要な拠点となりました。また、 丘陵下の滝川を利用することで、直接館山湾の水上交通とも結べると いう大きな利便性も有したお城でした。 稲村城の築城は15世紀後半と考えられており、 里見義豊が天文 の内訌により、 里見義堯に滅ぼされるまで、約80年間前期里見氏の 本城でした。 天文の内訌後、 稲村城は使用されなくなったため、 戦 国前期の城の姿がそのまま良好に残された遺構であり、貴重な価値を 有する城跡として主郭部が国の史跡に指定されています。 ⬛︎御城印デザインのご説明 里見氏の家紋と稲村城跡の鳥瞰図に城郭用語を配したものをモ チーフとして、デザイン化しました。 このお城は、地元の有志の方々によ る長年の広範囲な保存運動の成果により、遺跡破壊を免れ、 国指定 史跡になった経緯を持つ戦国前期の城跡であり、現在も良好に残る 様々な戦国期の城郭遺構を前記鳥瞰図が見事に表しているものです。
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2 館山城
¥400
⬛︎館山城のご説明 館山城は、戦国末期の里見義頼の時代には岡本城の支城としての役割を果たして いました。 里見義康の代に豊臣秀吉より 「惣無事令」 違反を咎められ、 里見家の上 総領が没収されたことに伴い、 安房国の新たな中心の城郭として積極的な拡張工事 が行われたお城です。 しかしながら、 義康の後を継いだ忠義の時代の慶長19年 (1614年) に、徳川幕府から突然国替えを言い渡されることとなりました。 館山城自体 は城を受け取りにきた幕府軍により破却され、ほとんどの堀は埋め立てられてしまいまし た。後年、太平洋戦争中には海軍の陣地となったため、10メートルほど山頂が削り 取られてしまい破壊が進みました。 現在昔日の面影を伝えるものとして、 千畳敷という曲 輪や切岸 堀切などが城内に残っています。 ⬛︎ご城印デザインのご説明 里見家の家紋である二引き両紋と昭和57年(1982年) に城地に建設された模擬天守 の絵柄をモチーフにしたものです。 模擬天守は館山市立博物館(八犬伝博物館) とし て、里見八犬伝に関する展示を行っています。
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1 猪鼻城
¥400
⬛︎猪鼻城のご説明 猪鼻城は、 1126年に千葉常重が大椎城から千葉に移り、 1455年に千葉宗家が滅 びるまで、千葉氏が本拠としていたお城といわれています。 その後も城郭として使われ、 城址のある亥鼻公園内に残る土塁や堀切、郭は、戦国時代の遺構と考えられます。 公園内の中央付近には、 近世のお城の天守閣を模した千葉市立郷土博物館が建 てられています。ちなみに、 城郭遺跡としての名称は「猪鼻城址」 ですが、一帯の行 政上の地名は「亥鼻」となっています。 ⬛︎ご城印デザインのご説明 御城印は、桓武平氏の名族として知られる千葉氏の家紋「月星紋」 「九曜紋」と千葉 市立郷土博物館前に立つ千葉常胤公をイメージした騎馬武者像を背景のモチーフと したものです。常胤公は鎌倉幕府の樹立に大きく貢献し、 千葉氏中興の祖とされます。