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⬛︎ 志津城のご説明 千葉県佐倉市
志津城は印旛沼西側の台地に築かれ、京成志津駅の南方約1kmに鎮座する天御中主神社 が志津城の一部だと伝わっています。志津城は、印旛沼に面する千葉一族臼井氏の重要拠 点臼井城の支城とされ、かつては臼井城が築かれた臼井台地と水路で行き来ができる立地で あったと考えられます。
志津城の詳細は不明ながら、鎌倉時代末期の人物志津次郎胤氏の伝承が残ることから、 鎌倉時代に臼井氏の庶流志津氏がこの地を領していたと考えられています。胤氏は当主臼井 太郎祐胤の弟にあたります。
正和3年(1314年)、祐胤が25歳という若さで死去すると、遺児である3歳の竹若丸を胤氏が 後見し、支えることになりましたが、胤氏は竹若丸の暗殺を計画。この企みに気づいた一族の 岩戸五郎胤安は竹若丸を連れて臼井城を脱出し、鎌倉建長寺の仏国禅師(高峰顕日)にその 身柄を預けたといいます。竹若丸が鎌倉へ脱出したことにより、胤氏が臼井一族の実権を握 りました。なお、竹若丸を逃がした岩戸胤安は、印旛沼を挟んで臼井城の対岸にある自身の 居城岩戸城を胤氏に攻められ、滅びました。
鎌倉へ逃げた竹若丸は建長寺で元服し、行胤と名乗り、臼井城への復帰を幕府に訴えまし たが叶いませんでした。そして、新田義貞による鎌倉攻めが起きると、行胤は新田軍に合流し 鎌倉を攻め落としました。
その後、行胤は足利尊氏に従って武功を上げ、尊氏から臼井氏の当主として本領安堵され、 「興胤」と改名し、臼井城に入りました。これにより、臼井城にいた叔父胤氏は志津城に戻り ましたが、興胤に対して反抗的な態度を取っていたため、暦応3年(1340年)に興胤に攻めら れ滅んだといいます。
現在、志津城周辺は開発され、天御中主神社の小丘にその姿をとどめるのみですが、かつ ては天御中主神社周辺の高台に広がって展開していたと思われます。県道155号で分断されて いる台地は当時は繋がっており、東から西に展開する谷に南面するように志津城は築かれてい たと考えられ、城の南側には水路が入り込み、また天御中主神社直下には街道が通る水陸交通の要所だったと思われます。 戦国時代の志津城については伝承に乏しいですが、享徳3年(1454年)に起きた享徳の乱に より、関東に戦乱が広がり臼井城が緊迫した状況に置かれると、志津城は臼井城の支城とし て機能したと思われます。天御中主神社は櫓台のような形状をしていて、さらに周辺の寺や民 家には、土塁が残っていることが見て取れることから、戦国時代の使用が推察されます。志 津城の全体像は不明ながらも、地域の歴史を物語り、印旛沼、臼井城、その他の支城との 繋がりが感じられる貴重な城といえます。
⬛︎御城印のご説明
印旛沼と繋がる水上交通の重要地であり、印旛沼を押さえる大拠点であった臼井城の支城 として機能した志津城の御城印には、印旛沼、臼井城との位置関係が分かる地図をデザインしました。
平成9年に、天御中主神社の斜面から陶器の破片と人骨が見つかり、 その後の調査で骨臓器として使われた中世の常滑焼の大甕が出土しま した。大甕の来歴は不明ですが、志津城にとって貴重な遺物といえま す。そのため、御城印には中世常滑焼きの大甕をイメージして描きました。
あわせて、千葉氏の家紋「月星」、「九曜」と、志津氏の家紋と伝わる「丸 に違い鷹の羽」を配置し、臼井興胤に攻められ滅びた志津胤氏をイメージ して武士の姿をモチーフにしました。
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