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105 大寺城

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⬛︎ 大寺城のご説明 千葉県匝瑳市
大寺城は江戸時代初期まで存在した椿の海の西側の台地上に築かれました。大寺城は、現 在の日蓮宗長福寺一帯が城域と考えられています。大寺から台地を下れば、中世の水上交通 の要所である借当川沿いにあたり、また大寺はこの地域の街道が集まる要所であることから、 水陸両方の交通が発達していた場所だと考えられます。大寺の中心を通る下総道は、中世に おいて重要な街道であり、戦国期には軍用道路としても使われたと考えられています。

弘治三年(1557年)、森山城の城主であった千葉胤富が千葉家当主となり本佐倉城に移り ます。胤富は本佐倉城に入ってからも森山城を重要視し、戦争の際には「森山衆」として森 山城の兵力を主力としました。森山城と本佐倉城への行き来に、この大寺を通る下総道が使 われたと思われます。まさに、戦国期に軍事用道路であった下総道は最重要ルートのひとつ であり、このような理由から街道の整備が進んだと考えられます。

また文禄4年(1595年)には、江戸城に岡飯田 (森山)から蜜柑が伝馬によって運ばれた ことがわかっています。経路は岡飯田、府馬、鏑木、大寺というルートを通り、江戸に向かっ たことが分かっており、このことから大寺が江戸ともつながる重要な街道における要所的宿 場であったことがわかります。

大寺には現在も、下総道に沿うように「横宿」 「上宿」などの宿地名が残るとともに、中世 期に構築されたと思われる鍵型の折れ筋も明瞭に残っています。まさに大寺は中世期の街道 と城郭との関係を見て取ることができる貴重な場所であり、大寺城はこのような重要な街道 を押さえる役目を担っていたと考えられます。

現在の長福寺の西側には「要害」の地名が残ることから、長福寺から西にかけて、城域が 広がっていたと推察され、長福寺の寺域の中にも一部土塁が残るとともに、西側の台地には 櫓台や堀切状の窪みが確認できます。

大寺城の詳細は不明ですが、この地域は匝瑳郡「北条庄」にあたり、北条庄の地頭は千葉 一族飯高氏でした。そのため、ここ大寺も飯高氏に繋がる勢力がいたと考えられます。また、 大寺城の西約3kmの距離には、飯高城があります。飯高城は戦国時代に平山氏の居城でした。 このことから、大寺城も飯高城と連携して機能する戦国時代の城だった可能性もあります。

⬛︎御城印のご説明
大寺城が築かれた大寺には、「大寺廃寺」と呼ばれる古代寺院がかつてあり、その大寺廃 寺を前身とするのが現在の龍尾寺です。この寺が地名の由来になっています。このことから、 大寺地区が古代から発展した地であり、地域の中でも重要な場所だったことがわかります。 そのため、中世には城が築かれました。大寺は古代のみならず、時代を通して要衝地であり 続けました。

江戸時代にも、大寺には幹線道路が通り、いくつもの道が交差する要所だった大寺城の御 城印には、元和期(1615年~1624年) 以前に描かれたと推定される「下総之国絵図」をデザ インしました。この図により、大寺の重要性がよく分かります。

そして、大寺を通り、輸送されていた蜜柑をデザインしました。この 当時の蜜柑は、今と違って小ぶりで酸味が強かったようですが、甘い物 が貴重な当時においては高級品であり、日もちがしたため、大名間での 贈答品として多用されたようです。下総は当時日本有数の蜜柑の産地で あり、その輸送を担ったのが大寺を通る街道であり、まさに蜜柑は大寺 の重要性を物語る象徴的アイテムといえます。千葉一族の九曜紋も、蜜 柑カラーでデザインしました。

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